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霧の中、私とアレクの間の空気が震える。水面が渦を巻き、霧が光を乱反射して視界を歪ませる。互いの呼吸だけが、濃密に響く。アレクは剣を握りしめ、笑みを絶やさず、まるで私の魔力など最初から存在しないかのように踏み込む。
「……それでも、前に進むのか」
私は問いかける。声は静かでも、魔力の圧で彼の身体を押し返すことができる。だが彼は怯まず、霧の壁を切り裂きながら一歩、また一歩と近づく。
「理解できなくても、俺は君を知りたい。側にいるために、全力で――」
その言葉が胸に突き刺さる。魔女としての冷徹な理性が、瞬間、揺らぐ。人間に、こんな感情を抱くなんて。けれど、アレクの瞳には揺るぎない意志がある。
私は反撃に出る。水の刃が鋭く彼を斬ろうと渦を巻き、霧が光を乱反射して視界を奪う。攻撃は圧倒的で、誰もが恐怖で足をすくめるだろう。しかし、アレクは微動だにせず、すり抜けるように前進する。踏み込むたびに水面が跳ね、霧が裂け、夜の沼地全体が戦場として生き物のように蠢く。
「……ここまで来たのに、諦める理由があるか?」
私は叫ぶ。霧が刃となり、彼を包む。だがアレクの剣先が、水の刃を斬り裂き、霧を押し返す。緊張と興奮が胸を満たす。互いの力がぶつかり合い、呼吸を忘れるほどの集中が続く。
その瞬間、彼の瞳に私の姿が映る。初めて、ありのままの魔女の姿が、恐れも憎しみもなく彼に届く。緑の髪が揺れ、紫の瞳が静かに光る。白い肌は霧に溶けることなく、確かにそこに存在している。
「……だから、覚悟を見せろ」
私の声は震えない。だが、胸の奥で熱が走る。戦いの最中に、心が動く瞬間――理解できないはずの人間の強さが、私の理性を押し返す。
アレクは微笑む。戦場の嵐の中で、彼の瞳は揺れず、ただ私だけを見据えている。霧の向こう、渦巻く水の壁、交錯する剣と魔力――全てが二人の距離を縮めるための演出だったかのように。
「……覚悟は、貴方が持つべきものね」
その言葉に、アレクは頷く。霧と水に包まれた夜の沼地で、二人の影が揺れる。戦いの緊張と、胸の高鳴りが絡み合い、世界は一瞬、私たちだけのものになった。
次回もお楽しみに!




