距離
霧は今日も、等しく世界を覆っている。
人間も、獣も、そして私自身さえも、区別なく曖昧にするように。
沼地の縁に立ちながら、私は足元の水面を見下ろした。
揺れるのは私の影だけ。感情は映らない。
――人間は、そこをよく勘違いする。
「……来るわね」
そう呟いた瞬間、霧の奥で気配が軋んだ。
敵意。恐怖。焦り。
混ざり合ったそれらは、どれも私にとっては似たようなものだ。
魔力を解く。
空気が重く沈み、霧が押し潰されるように流れを変える。
人間の悲鳴が上がるより早く、地面が裂け、水が牙を剥いた。
抵抗は一瞬だった。
相手が何を願い、何を背負ってここに来たのか――
そんなことを知る必要はない。
私はただ、在り方としてそこにいるだけだ。
背後で、足音が止まる。
振り返らなくても分かる。あの人間だ。
「相変わらず、容赦ないな」
軽い声。
けれど、その立ち位置はいつも同じだ。
前にも出ず、後ろにも下がらない。
守ろうともしないし、止めようともしない。
それが、私には理解できない。
人間は、恐怖すれば距離を取る。
欲望があれば近づく。
なのに彼は、何も変えずにそこにいる。
「変だと思わないの?」
問いかけても、返事は決まっている。
「変なのは、分かってる」
それだけだ。
理解しようとしないくせに、否定もしない。
私は再び霧の奥へ視線を向ける。
人間という存在は、やはり分からない。
分からないから、切り捨ててきた。
それで何の問題もなかったはずなのに。
――隣に立つ影があることだけが、計算に入らない。
相棒。
そう呼ぶには、まだ不確かで、曖昧で、歪だ。
けれど霧の中、二つ並ぶ足音が重なった瞬間、
私は初めて思った。
理解できないままでも、
並ぶことは、できるのかもしれない、と。
次回もお楽しみに!




