噛み合わない
静寂は、長くは続かなかった。
霧が完全に落ち着いたあとも、沼地の空気は重く張りついたままだ。
まるで何かが終わったのではなく、「決まらなかった」ことだけが残されたような感覚。
エノアは背を向けた。
戦いの痕跡を振り返ることもなく、霧の奥へと歩き出す。
「……行くの?」
アミットの声は、思ったよりも小さかった。
止めるためでも、追いすがるためでもない。ただ確認するような声音。
エノアは足を止めない。
「ここは、そういう場所」
それだけだった。
説明でも慰めでもない。魔女にとっての事実。
アレクは二人の間に立ったまま、視線を行き場なく彷徨わせる。
追うべきか、残るべきか。
その迷いを、エノアは一度も見なかった。
アミットは、拳を握る。
さっきまで霧に触れていた手が、少しだけ震えていた。
――自分は、何をしたのだろう。
役に立ったのか。
邪魔だったのか。
それとも、どちらでもなかったのか。
エノアの背中は、答えをくれない。
「変だよね、あの人」
ぽつりと、アミットが言う。
誰に向けた言葉でもない。
「助けたのに、感謝もしない。
守ったのに、振り返らない。
なのに……全部、知ってるみたいな顔してる」
アレクは答えなかった。
答えられなかった、と言ったほうが近い。
彼は知っている。
エノアが人間を理解しないのではなく、最初から“理解という発想を持たない”ことを。
だからこそ、彼女は公平だ。
だからこそ、残酷だ。
「……でもさ」
アミットは、少し笑う。
無理に明るくした笑顔ではない。ただ、受け入れるための表情。
「それでも、嫌いじゃないんだよね」
アレクは驚いたように彼女を見る。
「わかんないままでも、いいって思った。
あの人が変なのは、世界のほうが変だからでしょ」
霧が、わずかに揺れた。
エノアは立ち止まっていた。
振り返らない。
だが、確かに聞いていた。
理解できない。
それでも切り捨てられない。
それは、魔女にとって最も厄介な種類の人間だ。
「……行くぞ」
エノアが再び歩き出す。
今度は、霧が少しだけ薄くなった。
アミットは、その変化に気づかない。
だが霧は、彼女を拒まなかった。
それだけで十分だった。
この夜、
誰も何も失わなかった。
誰も何も得なかった。
――だからこそ、この選択は、あとで必ず意味を持つ。
霧は、覚えている。
選ばれなかった答えも、踏み出さなかった覚悟も。
そして魔女もまた、
理解できないまま、それらを抱え続ける。
次回もお楽しみに!




