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踏み出すもの

霧は、いつもより低く垂れ込めていた。

沼地の水面が不自然に波打ち、まるで地面そのものが息を潜めているようだ。


エノアは立ち止まったまま、視線だけを霧の奥へ向けている。

見えていないはずの“何か”を、確実に捉えていた。


「……来る」


その一言で、空気が変わった。


次の瞬間、霧を切り裂くように影が跳ねる。

人の形をしているが、人ではない。願いを果たせず、代償だけを喰われた残滓――この沼に時折現れる、歪んだ存在だ。


エノアは一歩も動かない。

代わりに、霧が応えた。


足元の水が跳ね上がり、刃のように形を変える。

触れる前に、影は切り裂かれ、悲鳴にもならない音を立てて霧へ溶けた。


圧倒的だった。

戦いというより、拒絶に近い。


アレクが短く息を吐く。

何度見ても慣れない、と言いたげな表情だが、今回は前に出ようとしなかった。


――代わりに、動いたのはアミットだった。


彼女は気づいてしまったのだ。

霧の裏側に、まだ“残り”がいることに。


理屈ではない。

エノアやアレクのように、力も覚悟も持たない。

それでも、足が動いた。


「アミット、下がれ!」


アレクの声が届くより早く、霧の中から伸びた影が、彼女の足を掴もうとする。


その瞬間、アミットは転ばなかった。

逃げもしなかった。


ただ、手にしていた小さな護符を、地面に叩きつける。


――霧が、わずかに弾けた。


ほんの一瞬。

だがその一瞬で、影の動きが鈍る。


エノアの視線が、初めて彼女を捉えた。


驚きでも称賛でもない。

ただ、興味深そうな、理解できないものを見る目。


次の瞬間、影は完全に消え去った。

沼地は再び静寂を取り戻す。


「……無茶するな」


アレクがアミットの肩を掴む。

彼女は笑った。少しだけ、困ったように。


「空気のままじゃ、見えないこともあるでしょ」


エノアは何も言わない。

だが霧の揺れが、わずかに彼女の感情を映していた。


理解できない。

人間は、いつもそうだ。


力も理由も足りないのに、

それでも踏み出す。


アミットは気づいていない。

今の行動が、いずれ何かを選ぶための“印”になったことを。


霧はすべてを覚えている。

そして魔女もまた――忘れない。

次回もお楽しみに!

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