空気でいられない
霧の中に立つと、自分の輪郭が曖昧になる。
アミットはそれが嫌いではなかった。
ここでは誰も、はっきりとした役割を押し付けてこない。
誰かの期待に応える必要も、強くある必要もない。ただ、そこに立っていればいい。
――そう、思っていた。
沼地の夜は静かだ。
だが静寂というより、音が選別されているような感覚に近い。必要なものだけが残り、不要なものは霧に溶ける。
アレクと魔女が向き合っているとき、アミットはいつも少し距離を取る。
会話に割って入れないわけではない。
入ろうと思えば、冗談も言えるし、空気を和らげることだってできる。
それでも、彼女は一歩引く。
二人の間に流れるものが、言葉ではないと気づいているからだ。
覚悟、諦観、あるいは理解されないことを受け入れた者同士の静かな共犯関係。そこに自分が入り込めば、何かが壊れる気がしていた。
「……また、だね」
小さく呟いた声は、霧に吸われた。
魔女――エノアは、こちらを見ない。
けれど、見ていないからこそ、すべてを把握しているようにも感じられる。その存在は、優しさとも冷酷とも違う場所にある。
アミットは知っていた。
自分がこの場にいても、いなくても、彼女は変わらない。
それが、少しだけ苦しかった。
「空気になるの、上手だよな」
不意に、アレクの声がした。
いつの間にか近くに立っていたらしい。
「……そう?」
「褒めてるつもり」
軽い調子のその言葉に、アミットは笑う。
いつもの癖だ。相手を安心させるための笑顔。
「アレクは、逆だね。目立つのに、肝心なことは言わない」
「はは、耳が痛い」
彼は冗談めかして笑ったが、その奥に一瞬だけ影が落ちたのを、アミットは見逃さなかった。
その影の正体を、彼女は深く考えない。
考えれば、きっと自分が踏み込んではいけない場所に触れてしまう。
霧の向こうで、魔力の揺らぎが走る。
エノアが何かを察知したのだろう。夜が、わずかに緊張する。
その背中を見つめながら、アミットは思う。
――私は、何を選びたいんだろう。
守られる側でいること。
見守る側でいること。
それとも、いずれ切り捨てられると分かっている場所に、それでも立ち続けること。
答えはまだ出ない。
ただ一つ分かるのは、
自分が「分からない存在」である魔女を、誰よりも変だと思いながら、誰よりも否定できないでいるということ。
霧が揺れ、夜が深まる。
選択の時は、まだ来ない。
けれどその時、アミットはもう――
空気のままでは、いられなくなっている。
次回もお楽しみに!




