近いよね
霧はいつもより低く、沼地の水面に張り付くように漂っていた。
夜と地面の境目が曖昧になり、どこまでが空気で、どこからが水なのか分からない。私はその中に立ち、ただ、動かずにいた。
人間たちは、今日も来ない。
正確に言えば、「来られない」のだろう。恐怖が先に立つ夜もあれば、願いが足りない夜もある。どちらにせよ、私にとっては大差ない。
背後で、わずかに霧が揺れた。
振り返らなくても分かる。
足音が軽い。水を恐れず、しかし踏み荒らすほど無遠慮でもない――人間だ。
「相変わらず、静かだな」
アレクの声だった。
名を名乗ったあの日から、彼は以前よりも余計な言葉を使わなくなった気がする。軽薄さは残っているのに、どこか芯だけが削ぎ落とされ、むき出しになっている。
「静寂を好むのは、あなたでしょう」
そう返すと、彼は肩をすくめた気配を見せた。霧の向こうで、姿はまだ見えない。だが、彼はこちらを“見ている”。その事実だけが、妙に重く胸に残る。
「好む、ってほどでもない。ただ……慣れてるだけだ」
慣れ。
その言葉に、私は一瞬だけ思考を止めた。人間が“慣れる”という行為を、私は未だに理解できない。痛みも、喪失も、恐怖も、本来は同じ形をしていないはずなのに、彼らはそれらを並べて、薄めて、いつの間にか日常にしてしまう。
「それは、良いことなの?」
問いかけると、アレクはすぐには答えなかった。
代わりに、沼地の水を踏む音が一つ、二つ。距離が縮まる。
「良いかどうかは分からない。でも、そうしないと立っていられない人間もいる」
その言い方は、どこか他人事だった。
まるで自分の話をしていないようで、けれど、確実に彼自身のことを指している。
私は霧の奥で、目を細める。
理解できない。
それでも、彼の言葉は不快ではなかった。
少し離れた場所で、別の気配が動いた。
軽く、慎重で、周囲をよく見ている――アミットだ。
彼女は何も言わず、ただそこにいる。
会話に割り込むことも、存在を主張することもない。ただ、霧の流れを乱さない位置に立ち、私とアレクの間にできた“沈黙”を、壊さないようにしている。
それが偶然ではないことに、私は気づいていた。
「……変わった人間ね」
ぽつりと漏らすと、二人ともこちらを見る気配を向けた。
「褒め言葉か?」
「いいえ。ただの事実」
アレクは小さく笑った。アミットは、何も言わずに微笑んだ。その笑顔が、なぜか霧よりも淡く、すぐに溶けそうに見えた。
人間は、やはり分からない。
分からないまま、近づいてくる。
そして私は、それを拒まない。
沼地の奥で、何かが静かに蠢いた。
まだ名前のない伏線のように。
私は霧の中で、何も言わずに立ち続ける。
この理解不能な存在たちが、どこへ行き着くのか――
それを見届けるくらいの時間は、まだあるのだから。
次回もお楽しみに!




