選択
霧は、私の思考を邪魔しない。
それが人間と決定的に違うところだ。
感情が渦巻こうと、過去が軋もうと、
霧はただそこに在り続ける。
私は沼地の縁に立ち、三つの気配を感じ取っていた。
ひとつは、覚悟を名に変えた男。
ひとつは、静かに揺れる優しさを持つ人間。
そしてひとつは――私自身。
アミットは、何も言わなかった。
けれど、彼女の行動は、言葉よりも多くを示していた。
逃げる選択は、常に開かれている。
人間はそういう生き物だ。
恐怖があれば、理由を作り、正当化し、背を向ける。
それでも彼女は、留まった。
代償を求めたわけでもない。
願いを口にしたわけでもない。
守るべき何かを掲げたわけですらない。
ただ、そこにいた。
――意味が、分からない。
人間はいつも、意味を欲しがる。
損か得か。
正しいか間違いか。
選ぶなら、理由を。
それなのに彼女は、理由を持たずに立ち続けた。
私は視線を向ける。
彼女は、こちらを見ていない。
それでも、私の存在を“感じている”。
見えないはずなのに。
資格がないはずなのに。
(……不思議ね)
アレクシオン・カリス・フェルド・エノデンドラド。
あの男は、名を差し出した。
人間にとって、名前は重い。
過去と血と責任を背負うもの。
だから、理解できる。
覚悟という言葉で片づけられる。
けれど、アミットは違う。
彼女は何も差し出していない。
それなのに、失うことを恐れていない。
優しさ。
人間はそれを美徳と呼ぶ。
だが私には、それが理解できない。
優しさは、対価を求めない。
見返りも、救いも、保証もいらない。
それは、契約にならない。
私は何百年も、人間を見てきた。
願い、裏切り、泣き、呪い、祈る姿を。
けれど、彼女のような在り方は、
私の知るどの分類にも当てはまらない。
(だからか)
胸の奥で、得体の知れない違和感が揺れる。
苛立ちではない。
怒りでも、興味でもない。
理解できない、という事実そのもの。
それは魔女にとって、
人間を永遠に理解できない証明に等しい。
私は霧を一層濃くする。
視界も、気配も、境界も曖昧に。
それでも、彼女は消えない。
選択とは、こういうものなのかもしれない。
言葉にしないまま、
誰にも認められなくても、
それでも立ち続けること。
人間は、滑稽だ。
そして――やはり、理解できない。
私は静かに背を向ける。
契約は、まだ結ばれていない。
だが、確実に何かが進んでいる。
願いでも、代償でもない形で。
霧の中、アミットの気配が、わずかに揺れた。
それが何を意味するのか。
私は、最後まで理解しないだろう。
だからこそ――
この人間は、私の記憶に残る。
次回もお楽しみに!




