そっか
霧が引いたあと、沼地は驚くほど静かだった。
騒ぎがあったこと自体、最初から存在しなかったみたいに。
アミットは一人、少し離れた場所で立ち止まっていた。
アレクと魔女――エノアの気配は、まだ感じる。
けれど、自分はその輪郭から外れている。
(……また、だ)
胸の奥で、言葉にならない何かが小さく沈む。
誰かが話しているとき。
重要な決断が下されるとき。
場の空気が、自然と二人の方へ流れていく。
自分は、そこに“いる”のに。
見えていないわけじゃない。
聞こえていないわけでもない。
ただ、重さがない。
足音も、言葉も、感情も。
全部きちんと持っているはずなのに、
なぜか場に影を落とさない。
「……私、今いなくても同じかな」
独り言は、霧に吸われて消えた。
誰にも届かないと分かっている声。
嫌われているわけじゃない。
拒絶されているわけでもない。
それが、余計に厄介だった。
必要とされていないのではなく、
“必要かどうかを考えられていない”。
それは怒りにもならず、
悲しみにもなりきらない。
ただ、じわじわと形を失わせる感覚。
アミットは、自分の手を見つめる。
泥も、水も、確かに付いている。
さっき――
誰かの前に立ったときも、同じ手だった。
考えたわけじゃない。
勇気を出したつもりもない。
ただ、気づいたら、そこに立っていた。
(あれって……選んだ、って言えるのかな)
わからない。
でも、あの瞬間だけは、
自分が“そこにいた”感覚があった。
空気じゃなかった。
誰かにとって重要だったかどうかは、分からない。
けれど、自分自身には確かだった。
アミットは視線を上げる。
霧の向こうに、エノアの気配がある。
魔女。
願いと代償の存在。
理解できないはずの人。
それなのに、なぜか一番、見られている気がした。
(……見られてた、よね)
責める視線でも、評価する視線でもない。
ただ、観測するような――
冷たくて、正確な視線。
それが、少しだけ怖くて。
少しだけ、安心だった。
「……私、何してるんだろ」
答えは出ない。
出さなくていいとも思っている。
まだ、自分が何者かなんて決めなくていい。
空気でも、役に立たなくても。
それでも、次にまた同じ場面があったら――
多分、同じ場所に立つ。
理由は、ない。
意味も、説明もできない。
ただ、それが自分だから。
霧が、またゆっくりと濃くなる。
アミットは深く息を吸い、歩き出した。
自分が空気だと分かっていても、
消えるつもりは、まだなかった。
次回もお楽しみに!




