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人間の過去というものは、不思議なほど単純な形で残る。

血に塗れた惨劇や、世界を揺るがす悲劇よりも、たった一つの選択の方が、長く心に沈殿する。


選んだことではない。

選ばなかったことだ。


霧が一段、低く垂れた。

それは私が意図したものではない。アレクの足元から、自然に滲み出たものだ。


「……ここまで見せるつもりはなかったんだが」


独り言のように漏れた声は、誰に向けられたものでもない。

だが霧は応じる。過去は、許可を取らない。


夜だった。

まだ彼が“アレク”と呼ばれる前の時間。


石造りの屋敷は静まり返り、灯りは最低限しか点いていなかった。貴族の家では珍しくもない光景だ。音を立てないことが、美徳とされる夜。


その廊下で、少年は立ち止まっていた。


扉の向こうから聞こえるのは、大人たちの声。

低く、冷静で、感情のこもらない会話。そこに彼の名前が含まれていることを、少年は理解していた。


駒。

交渉材料。

次代への保険。


そういう言葉は、直接口にされなくても伝わる。


扉を開ければ、何かが変わったかもしれない。

叫べば、拒めば、壊せば。


だが少年は、動かなかった。


自分が声を上げたところで、何が変わるのか分からなかったからだ。

変わらない可能性の方が、圧倒的に高かった。


だから選ばなかった。

沈黙を。


霧の中で、アレクの喉が僅かに鳴る。


「……あの夜、俺は勇気がなかったわけじゃない」


言い訳にも、懺悔にも聞こえない声音だった。

ただ事実を並べるような調子。


「勇気を使う価値が、見えなかっただけだ」


私は何も言わない。

魔女は、人間の判断を裁かない。


少年はその夜、部屋に戻り、眠った。

泣かなかった。怒らなかった。誰にも話さなかった。


そして翌朝、何もなかったかのように名を呼ばれ、役割を与えられ、期待を背負わされた。


その積み重ねが、今の男を形作っている。


過去とは、出来事ではない。

選択の癖だ。


選ばなかった夜を境に、彼は常に「最悪を想定する人間」になった。期待しない。信じすぎない。だが、切り捨てもしない。


中途半端で、厄介で、ひどく人間らしい。


「後悔は?」


私が問うと、アレクは少しだけ考えた。


「……ないと言えば嘘になる」


正直な答えだ。


「だが、あの夜に戻っても、同じ選択をする」


霧が揺れる。

それは覚悟が、過去と矛盾していない証だ。


後悔しながら、それでも選び直さない。

それは逃げではない。責任だ。


私は静かに息を吐く。


多くの人間は、過去を美化するか、否定するか、どちらかしかできない。

だがこの男は、過去をそのまま持ち続けている。


それが、重さの正体。


「……厄介ね」


思わず零れた言葉に、アレクは小さく笑った。


「よく言われる」


霧は晴れない。

だが、沈黙は少しだけ軽くなった。


過去を背負う者は、必ず次の選択を迫られる。

そのとき、彼は何を選ばないのか。


それを見届けるには、

まだ少し時間が必要だ。

次回もお楽しみに!

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