時間はある
霧は、隠すためにあるのではない。
忘れられなかったものが、自然と沈殿した結果だ。
私はそう理解している。
この沼地に集まる霧は、人間たちが切り捨てきれなかった後悔や、見なかったことにした罪の残骸だ。願いを叶えた代償として喰らってきた数多の感情も、やがて霧となり、この地に溶け込んでいった。
だから私は、霧の中では嘘を見ない。
見えるのは、いつだって剥き出しの過去だけ。
アレクという男が立っている場所にも、濃淡の違う霧が絡みついていた。
それは恐怖ではない。
欲望でも、後悔でもない。
重さだ。
時間をかけて積み上げられ、降ろすことを許されなかったものの重み。自分で選び、同時に選ばなかったすべてを抱え続けてきた者特有の沈黙が、彼の周囲にはあった。
人間はよく言う。
「過去は捨てて前を向け」と。
だがそれは、捨てられる過去しか持たない者の言葉だ。
本当に背負ってしまった者は、そんなことを口にしない。
背負うという行為は、前に進むことと同義ではない。
むしろ、足を引きずることを受け入れる覚悟だ。
アレクの過去は、珍しくもない。
名を持って生まれ、名によって縛られ、名のせいで選択肢を奪われた。守るために黙り、守れなかったことを責め続ける。人間の社会では、何度も繰り返されてきた形だ。
それでも、彼がここに立っている理由は明確だった。
彼は、過去を清算しに来たのではない。
忘れに来たのでも、救われに来たのでもない。
ただ、引き受けに来た。
「覚悟だ」
その言葉に、願いは含まれていなかった。
私には、それがはっきりと分かる。
願いとは、未来に対する欲求だ。
だが彼の覚悟は、過去に対する責任だった。
名を名乗るという行為は、魔女の前では単なる自己紹介ではない。それは存在そのものを差し出す行為だ。名前を持つ限り、逃げ場はなくなる。霧に溶けることも、他者のせいにすることもできなくなる。
それでも彼は、名を差し出した。
私は、その瞬間だけ、少しだけ息を止めた。
愚かだと思った。
同時に、懐かしいとも感じた。
かつて、同じように過去を背負った人間たちがいた。
皆、同じ場所で立ち尽くし、同じ目をしていた。
そして――ほとんどが、ここで終わった。
アレクがそうなるかどうかは、まだ分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
この男は、
「軽い未来」を望まない。
過去を背負うということは、未来を諦めることではない。
未来を、安易に扱わないと決めることだ。
私は霧の奥で、わずかに口角を上げる。
厄介な人間だ。
だが、嫌いではない。
過去を背負う者は、必ず選択を迫られる。
そして選び続ける限り、物語から降りることはできない。
――さて。
この重さを抱えたまま、
どこまで歩けるのか。
それを見届けるくらいの暇は、
私には、いくらでもあるのだから。
次回もお楽しみに!




