表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/70

時間はある

霧は、隠すためにあるのではない。

忘れられなかったものが、自然と沈殿した結果だ。


私はそう理解している。


この沼地に集まる霧は、人間たちが切り捨てきれなかった後悔や、見なかったことにした罪の残骸だ。願いを叶えた代償として喰らってきた数多の感情も、やがて霧となり、この地に溶け込んでいった。


だから私は、霧の中では嘘を見ない。

見えるのは、いつだって剥き出しの過去だけ。


アレクという男が立っている場所にも、濃淡の違う霧が絡みついていた。

それは恐怖ではない。

欲望でも、後悔でもない。


重さだ。


時間をかけて積み上げられ、降ろすことを許されなかったものの重み。自分で選び、同時に選ばなかったすべてを抱え続けてきた者特有の沈黙が、彼の周囲にはあった。


人間はよく言う。

「過去は捨てて前を向け」と。


だがそれは、捨てられる過去しか持たない者の言葉だ。

本当に背負ってしまった者は、そんなことを口にしない。


背負うという行為は、前に進むことと同義ではない。

むしろ、足を引きずることを受け入れる覚悟だ。


アレクの過去は、珍しくもない。

名を持って生まれ、名によって縛られ、名のせいで選択肢を奪われた。守るために黙り、守れなかったことを責め続ける。人間の社会では、何度も繰り返されてきた形だ。


それでも、彼がここに立っている理由は明確だった。


彼は、過去を清算しに来たのではない。

忘れに来たのでも、救われに来たのでもない。


ただ、引き受けに来た。


「覚悟だ」


その言葉に、願いは含まれていなかった。

私には、それがはっきりと分かる。


願いとは、未来に対する欲求だ。

だが彼の覚悟は、過去に対する責任だった。


名を名乗るという行為は、魔女の前では単なる自己紹介ではない。それは存在そのものを差し出す行為だ。名前を持つ限り、逃げ場はなくなる。霧に溶けることも、他者のせいにすることもできなくなる。


それでも彼は、名を差し出した。


私は、その瞬間だけ、少しだけ息を止めた。


愚かだと思った。

同時に、懐かしいとも感じた。


かつて、同じように過去を背負った人間たちがいた。

皆、同じ場所で立ち尽くし、同じ目をしていた。

そして――ほとんどが、ここで終わった。


アレクがそうなるかどうかは、まだ分からない。


だが一つだけ確かなことがある。


この男は、

「軽い未来」を望まない。


過去を背負うということは、未来を諦めることではない。

未来を、安易に扱わないと決めることだ。


私は霧の奥で、わずかに口角を上げる。


厄介な人間だ。

だが、嫌いではない。


過去を背負う者は、必ず選択を迫られる。

そして選び続ける限り、物語から降りることはできない。


――さて。


この重さを抱えたまま、

どこまで歩けるのか。


それを見届けるくらいの暇は、

私には、いくらでもあるのだから。

次回もお楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ