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意味と理由

霧が晴れた瞬間、そこに立つ存在を見た。


それだけだ。

息を呑むほどの美しさも、言葉を失うほどの異質さも、確かにあった。

だがアレクの意識は、ほんの一瞬それを捉えただけで、すぐに別の場所へ引き戻されていた。


――今さら、驚く資格はない。


彼は知っている。

世界が、どれほど簡単に形を変えるかを。


「……見えているのね」


その声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。

懐かしさではない。

恐怖でもない。


ただ、過去が――

蓋をしていた記憶が、音を立てて開き始めただけだ。


アレクは、かつて名を持たなかった。


正確には、名を呼ばれる価値がない場所で生きていた。

貴族の家に生まれながら、血筋を理由に疎まれ、

存在を認められず、

呼ばれるのは命令か、罵倒か、沈黙だけ。


名は、重荷だった。

名を名乗れば期待され、

期待に応えられなければ切り捨てられる。


だから捨てた。

捨てて、逃げて、

二度と戻らないと決めた。


それでも、夜は来る。


剣を握る手が震えた夜。

誰かを救えなかった朝。

選ばなかったことで、選ばれなかった現実。


そのすべてが、胸の奥に沈殿している。


「……理解しているつもりだ」


魔女に向けた言葉は、彼女のためではなかった。

自分自身に言い聞かせるための声だ。


「名を差し出すってことが、

 どれだけ面倒で、厄介で、

 逃げ場をなくす行為か」


霧の中で、魔女は黙っている。

それが裁きなのか、興味なのかはわからない。


アレクは続けた。


「俺は、何度も逃げた。

 選ばなかった。

 背負わなかった」


一歩、前に出る。

足が沈まないことに、今さら驚きはしない。


「だからこれは、告白じゃない」


視線を逸らさず、言い切る。


「覚悟だ。

 もう、名前から逃げないって決めただけだ」


霧が、わずかに揺れた。


魔女の姿がそこにあることを、彼は再確認する。

だが細部を見る余裕はない。

今はただ、過去を差し出している感覚だけがあった。


「……愚かね」


その言葉に、なぜか苦笑が漏れそうになる。

昔から、同じことを言われ続けてきた。


「そうかもしれない」


それでも、足は止まらない。


「でも、これだけは決めた。

 名を呼ばれる痛みも、

 切り捨てられる恐怖も、

 全部含めて――引き受ける」


魔女は、まだ名を名乗らない。

紫の瞳が、彼を測るように見つめるだけだ。


それでいい。


これは始まりではない。

やり直しでもない。


ただ、過去から逃げ続けた男が、

ようやく自分の名前を拾い上げただけの夜だ。


霧の向こうで、魔女は静かに立っている。

彼女が何者かなど、まだ知らなくていい。


アレクにとって重要なのは、

「見えた」ことではなく、

「名を捨てなかった」ことだった。

次回もお楽しみに!

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