名乗る覚悟
霧は、音もなく形を変え続けていた。
沼地の水面に映る月は歪み、現実と虚構の境界を曖昧にしていく。
私はその中心に立っている。
逃げる人間も、願いを叫ぶ声もない。
ただ一人、霧を踏みしめて進んできた男だけが、そこにいた。
「ここまで来て、引き返さない人間は久しぶりね」
そう告げても、彼は笑うでもなく、強がるでもなく、ただ肩をすくめた。
「覚悟なら、とうに決めてきた」
それは告白ではない。
誓いでも、命乞いでもない。
“選択”を引き受ける者の声だった。
霧が揺れる。
私の魔力が、無意識に解かれていた。
——見せるつもりはなかった。
見せる必要も、なかった。
けれど。
男が名を口にした瞬間、
世界の均衡が、ほんの僅かに傾いた。
「俺の本当の名は――
アレクシオン・カリス・フェルド・エノデンドラド」
長く、重い名。
血筋も、過去も、責任も、すべてを背負うための名。
その音が霧に溶けた瞬間、
私と彼を隔てていた“見えない境界”が、音もなく崩れ落ちた。
霧が裂ける。
月光の下、
白い肌、紫の瞳、緑の髪。
初めて、私の姿が“見える”。
アレクは、息を止めた。
恐怖でも、欲でもない。
ただ、言葉を失った沈黙。
(……そうか)
彼の胸に落ちたのは、理解だった。
噂の魔女でも、絶望の象徴でもない。
確かに“ここに在る”存在。
「……ずるいな」
ぽつりと零れたその一言は、私を責めるものではなく、
むしろ自分自身への苦笑だった。
「これを見て、何も感じない人間でいられるわけがない」
目を逸らさない。
逃げない。
それでも、求めない。
私は、静かに微笑んだ。
「後悔するわよ」
「それでもいい」
即答だった。
覚悟とは、命を賭けることじゃない。
“失う可能性を知った上で、立ち続けること”。
霧が再び、ゆっくりと閉じていく。
私の姿は、また世界から隠される。
けれど、もう違う。
彼は知ってしまった。
そして私は——
(ああ……)
これは、ただの魔女の紹介だったのだと、ようやく理解した。
もうそろそろで最終話!(好評だったらまだまだ続く)
次回もお楽しみに!




