微笑む
霧の奥で、私は静かに微笑む。
人間たちの願いも、恐怖も、今日も私の手の中にあるのだ。
――そう、思っていたはずなのに。
次の瞬間、霧が裂けた。
物理的に、ではない。魔力の流れそのものが、乱暴に押しのけられる感覚。
沼地の水が低く唸り、足元から冷たい衝撃が這い上がる。
「……なるほど」
相手は、ただの人間ではない。
少なくとも、私の霧に呑まれて終わる程度の存在ではなかった。
姿は見えない。
だが、こちらを“見ている”気配だけが、鋭く突き刺さる。
魔女を探す視線。恐怖よりも、好奇心と――僅かな確信。
私は指先を上げ、霧を束ねる。
白い靄は刃となり、音もなく空を切った。
直後、水面が爆ぜる。避けた。反応が、早い。
「……ふぅん」
思わず、感嘆が漏れる。
逃げるでもなく、隠れるでもなく、正面から霧を踏み越えようとする存在。
その無謀さは、嫌いではない。
沼地が私の意志に応え、黒く沈む影が立ち上がる。
水と魔力で形作られたそれは、人の輪郭を真似た歪な像。
触れれば骨まで凍る、拒絶そのもの。
影が振り下ろされる。
重い衝撃音。だが、決定打にはならない。
相手は、まだ立っている。
霧越しに伝わる息遣い。
恐怖はある。だが、それ以上に――「知りたい」という感情が強い。
……ああ。
そういう人間か。
「願いを持たない者ほど、厄介なのよ」
私は静かに告げる。
それは忠告であり、事実であり、ほんの少しの本音だった。
霧が再び濃くなる。
視界も、距離も、意味を失っていく。
それでも、私は一歩も退かない。
この沼地は私の領域。
恐怖も、希望も、選択すらも――私が与える。
今夜の霧は、いつもより濃い。
それは偶然ではない。
そしてこの夜が、ただの“契約前夜”では終わらないことを、
私はもう、理解していた。
次回もお楽しみに!




