紫瞳の魔女様
霧が薄くなる朝、沼地には静寂だけが広がっていた。
湿った土の匂い、まだ冷たい水音、それだけが存在を主張する。
私はその中に立ち、今日も人間の足音を待つ。
どんな小さな望みも、ここに踏み込む者には重くのしかかる。
「……また、来るのか」
私の声は風に溶け、誰にも届かない。
だが心の奥では、少しだけ期待していた。
昨日の青年のことを、まだ見ているのかもしれないと。
霧の奥から、軽やかな足音が聞こえた。
それは小走りのようでもあり、迷子のようでもある、不安定なリズム。
目に映る人影はまだ小さく、だが足取りには生気があった。
彼の心の揺れを、私は容易に読むことができる。
「……願いを持って来たのね」
囁くように、私は言った。
けれど、それが聞こえるのは私だけ。
彼らに私の姿は見えない。
見えなくても、感じる。恐怖も、期待も、そして欲望も。
そして、もう一人の気配が混じった。
近くの林から漂う、軽やかな笑い声。
この笑いには、人間特有の愛嬌がある。
見ると、まだ名も知らぬ少女が、目を輝かせてこちらを見つめていた。
彼女の胸の高鳴りが、透けて見えるようだった。
なぜだろう、彼女の期待と好奇心の色が、自然と私に伝わる。
同時に、あのクズ男の香りが漂ってきた。
陽気でチャラいが、どこか紳士的な匂い。
ふと目をやれば、少年のように笑っているが、周囲には気を配る柔らかさがある。
この男もまた、私の前に来る一人。
願いを口にする前から、代償を受けることになると知らずに、足を踏み入れてくるのだろう。
霧の中、私は静かに目を細めた。
この二人が出会うことになるのは、まだ先の話。
だが確かに、今この瞬間から、運命の糸は少しずつ絡まり始めている。
「楽しませてもらおうか」
紫の瞳に微かな光を宿し、私はそっと笑う。
まだ誰も名前を呼ばない、まだ誰も私の全てを知らない。
それでも、今日の霧は、彼らの心に少しの変化を残すことだろう。
そしていつか、この沼地で交わされる契約の意味を、全員が理解する日が来る――。
霧の奥で、静かに私の長い髪が揺れる。
エノア、という名を、今日も誰も知らないまま。
次回もお楽しみに!




