魔女の名前
霧の奥。足元を覆う湿った泥と冷たい水音。
今日も人間は、何かを求めて私の前にやって来る。
願いを囁き、恐怖に身を震わせ、代償を恐れる。
その姿を、私は遠くから見下ろすように眺めるだけだ。
紫の瞳に映る世界は、常に少しだけ傾いて見える。
緑の髪は風に揺れ、白い肌は霧の光に溶ける。
私は笑わない、名も名乗らない。
人間が私の名を知ることなど、必要ないのだから。
今日も一人、沼地に足を踏み入れた青年がいた。
恐る恐る私を探すその瞳に、迷いと憧れが混ざる。
彼が何を望むのか、私は既に知っている。
だがそれを与える前に、少しだけ楽しむ。
彼の心の奥底で、私が何を意味するかを思い知らさせるのだ。
「願い……か」
声にならない声が聞こえる。私の耳に届くのは、震える呼吸と心臓の音だけ。
代償のことなど、言うまでもない。
全てのものには、支払いが伴う。それが私の仕事だ。
霧が少しだけ晴れた瞬間、遠くに古文書の文字が浮かぶ。
そこに、かすかに記されていたのは――エノア。
私の名は、誰も口にできなかった。
しかし、偶然の導きで、彼らは知ってしまうのだろう。
私が誰であるかを。
そして、名前を知ったとしても、何も変わらない。
私の望みはただ一つ。
人間の願いを見定め、その代償を与えることだけ。
青年はまだ気づかない。
私の名を知ったとしても、私の存在そのものが、彼の運命を変えることに変わりはない。
だから今日も、静かに霧の中で見守るだけ。
彼が望むものを手に入れる代わりに、何を失うのかを。
それでも、名前は知らないままでいなさい――
私が魔女であることだけを、覚えていれば十分なのだから。
次回もお楽しみに!




