契約
霧が、嘘みたいに薄れていく。
気づけば俺は、沼地の真ん中に立っていた。
足元はぬかるんでいるはずなのに、不思議と沈まない。
「……それで?」
声は、もう背後ではなかった。
正面。
霧の向こうに、ようやく“輪郭”だけが浮かび上がる。
女だった。
背が高く、細く、ヒールのかかとだけが異様にくっきりと見える。
顔は、まだ見えない。
「俺の願いを叶える代わりに、命を取るんだろ」
言葉にした途端、喉の奥がひりついた。
恐怖じゃない。
覚悟を口に出した痛みだ。
「ええ」
即答だった。
「命を、いただきますわ」
やけに丁寧で、やけに上品な言い方。
まるで買い物の確認みたいに。
「……今すぐか?」
「いいえ」
くすり、と笑う気配。
「今すぐ心臓が止まる、という意味ではありませんの」
拍子抜け、というより、背中が冷える。
「あなたが“生きている”と思っている時間。
そのすべてを、代償として預かるだけですわ」
「……は?」
理解する前に、言葉が滑り落ちた。
「寿命、存在、可能性。
呼び方はなんでも結構」
ヒールが一歩、こちらに近づく。
「要するに――
あなたの命は、もうあなたのものではない」
冗談みたいな口調だった。
それが、いちばん質が悪い。
「じゃあ、俺はいつ死ぬ」
「さあ?」
心底楽しそうに、魔女は首を傾げた。
「何かを得たと思った瞬間かもしれませんし、
自分を救えたと勘違いした瞬間かもしれません」
勘違い、って言ったな。
「……性格悪いな」
「今さらですわ」
あっさり認められた。
霧の奥で、青い光が揺れる。
初めて、彼女の“目”だけが見えた。
冷たい青。
人間の感情を測る気のない色。
「それでも、契約なさいます?」
逃げ道は、もうなかった。
最初から、引き返す気もなかった。
「するさ」
そう答えた自分の声は、意外と落ち着いていた。
「どうせ、元から何も持ってない」
魔女は満足そうに微笑った――気がした。
「では、契約成立です」
霧が、再び濃くなる。
その瞬間、胸の奥で何かが“外れた”感覚がした。
痛みはない。
ただ、空白。
「安心なさい」
最後に、囁く声。
「あなたは、まだ生きています」
霧が晴れた時、そこに魔女の姿はなかった。
俺は一人、沼地に立っていた。
生きている。
――ただし、俺の命はもう俺のものじゃない。
次回も楽しみに




