霧深き追跡
霧は静かに沼を覆っている。
足元の水面すら揺れることなく、冷たい空気が肌にまとわりつく。私はその中にひそやかに立っていた。視界は白に閉ざされ、追跡者の足音すらまだ届かない。遠くでかすかに、村の騒ぎが聞こえる。指名手配されたらしい愚かな人間たちが、私を捕らえようと動き始めたのだ。
ふふ、と、私は微かに笑った。
この沼地は、彼らにとって恐怖と混乱の迷路にすぎない。霧の厚みは私の味方であり、私自身もまた、彼らにとって幻影のような存在だ。
一歩、霧の中を踏み出す。湿った空気が指先に絡みつき、冷たさが心地よくもある。追跡者の足音はまだ近づかない。しかし、確実に、私の存在を求めて進んでいるのだ。
「人間というのは、なんて愚かで滑稽なのかしら」
静かに呟き、視線を遠くの揺れる影に向ける。紫の瞳が緑の髪の合間から冷たく光り、白い肌は霧に溶け込むことなく、ただ存在を主張する。
霧が微かにざわめく。追跡者はその不自然さに気づき、足を止める。遅れて息を弾ませながら進む者が一人。私は手をひらりと上げた。霧が渦を巻き、水面に波紋が広がる。空気が振動し、夜の静寂を破る。
「――私はここにいる。しかし、誰も私を捕まえられない」
言葉は届かずとも、力と意思は霧を通して全てに伝わる。追跡者たちは恐怖と混乱に凍りつく。
瞬間、霧の奥で小さな水しぶきが跳ねた。誰かが手を伸ばす。私は笑う。今日も人間は私に翻弄される。だが、その翻弄の中に、少しだけ面白さを感じる。私の視線は遠くで揺れる人影に向けられ、今日もまた、誰かの欲望と恐怖が私の手の中にあるのだと確かに知る。
次回もお楽しみに!




