罪の灯
霧は、いつもより重かった。
湿った空気が肌にまとわりつき、足元の沼が小さく音を立てる。
私はそこに立っていただけだ。
紫の瞳を伏せ、緑の髪を夜風に揺らし、ただ待っている。
それだけで、人間たちは勝手に恐れ、勝手に武器を構える。
「……やっぱ噂通りだな」
軽い声。
場違いなほど、軽薄で、明るい。
振り向かなくても分かる。
この場に立つには似合わない男だ。
逃げ遅れたわけでも、迷い込んだわけでもない。
「ここ、マジでやばいって聞いたんだけどさ」
笑いながら、男は一歩踏み出す。
霧の中でも分かる、無防備な歩き方。
周囲の人間たちは、すでに距離を取っている。
私からも、彼からも。
「逃げないの?」
私はようやく口を開いた。
男は肩をすくめる。
「逃げても追われるだろ? それなら――」
そこで一瞬だけ、表情が変わった。
軽さの奥に、妙な覚悟が宿る。
「ちゃんと、見ときたいじゃん」
その瞬間、私は手を振った。
霧が裂け、地面が抉れ、空気が震える。
普通の人間なら、立っていられない衝撃。
……なのに。
男は膝をつきながらも、倒れなかった。
息は荒く、顔色も悪い。
それでも、顔を上げてこちらを見る。
「はは……マジかよ」
震える声で、笑う。
「……噂、盛りすぎじゃなかったな」
私は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
恐怖で泣き叫ぶでもなく、憎しみをぶつけるでもない。
ただ、そこに立ち、私を“見ている”。
「……覚悟があるのね」
そう言った私に、男は首を傾げた。
「覚悟? さあな」
それでも、視線は逸らさない。
「でもさ、ここまで来た以上――」
「中途半端は、ダサいだろ」
霧が、静かに流れる。
私は気づいてしまった。
――ああ。
この男は、まだ壊れていない。
だからこそ、いずれ壊れる。
その予感だけが、胸の奥に残った。
その夜。
私は人間の都で、**“指名手配犯”**と呼ばれるようになった。
次回もお楽しみに!




