カノンとローカンによる勝犬投票券購入
ローカンとカノンは競犬場の門をくぐった。すでに多くの人々が詰めかけ、場内は熱気に包まれている。門の上には大きく書かれた文字が踊る。
『第100回 アリーマ記念』
売り場の前には巨大な黒板があり、オッズが次々と書き換えられている。
一番人気:ゼファー(単勝オッズ 2倍)
五番人気:ヴァル(単勝オッズ 10倍)
「じゃあ買うか!」ローカンは懐を探りながら悩んだ。「うーん、金貨十枚……」
「何言ってんの?」カノンが冷ややかに言う。「さっき訳のわかんないブレスレットを金貨十枚で買ってたでしょ! 少ないわよ!」
「実は、金貨十枚が持ち金の全てなんだ」
その言葉を聞いて、カノンは呆れたようにローカンを見つめる。そして、ふっと微笑むと、彼の耳元に唇を寄せた。
「それで、警備総長なの?」
艶やかな声が囁きとなってローカンの鼓膜を震わせる。吐息がかかり、ローカンは思わず喉を鳴らした。
「……近づくなよ」
「ふふっ、もちろん銀行にあるんでしょ?」
「持ち歩くと、いつの間にか使っちまうからな」
「あなたは、その方がいいわね」カノンは肩をすくめながら、わざと指先でローカンの袖口をなぞる。その仕草にローカンは顔をしかめた。
その間にも、黒板のオッズが次々と変動する。競犬場の職員が、手に持ったメモを見ながら、チョークで数字を修正していた。
「出走時間まで、あと少しです! 日時計が三を指したら締め切ります!」
鐘が五回鳴り響く。時間が近づくにつれ、鐘の回数は減っていくらしい。焦らせて煽る仕組みだ。最後に一回鳴ると締め切りになる。
すると、ヴァルのオッズが急に変動した。
ローカンが周囲を見渡すと、ヴァルの勝犬投票券を束のように抱えた二人の姿があった。
——一人は、ローカンにペンダントを売ったアクセサリー商人。もう一人は、ノシロだ。
「うーん、あの商人もヴァルに賭けてるぞ!」
「あの商人、やっぱりちょっと変じゃない?」カノンが目を細める。酔っ払っているようにも見えるが、纏っている雰囲気が普通じゃない。
「そうかなぁ、酔っ払ってるだけじゃないか」
彼らが大量に投票したせいで、ヴァルのオッズは一気に下がり、五番人気から二番人気へと跳ね上がった。単勝オッズも三倍にまで下がる。
「こんな短時間でここまで動くか……?」
ローカンは眉をひそめた。
二人はそそくさと袋に詰めるとその場を立ち去る。鐘が四回、三回と鳴るたび、ヴァルのオッズはさらに下がっていった。
「やっぱり、牙狼を買っておこう!」
「狼が出るレースだぞ、記念に!」
「この競犬新聞に書かれていることを信じよう!」
急に登場したヴァルだったが、ミーハーな人気が出てきたらしい。
さらに黒板が書き換えられ、ついにヴァルが一番人気になった。オッズも二倍まで下がってしまう。
「……見るだけにしようか?」ローカンは、つまらなげに呟く。
「ふーん……」カノンは、軽蔑の目を向けた。
「ま、とりあえず並ぶか!」ローカンは仕方なく列に加わったが、ふと横を見る。
「ところで、お前も並んでるけど……金持ってないんじゃないのか?」
「実はね、セラさんが『お金がないと困るだろう』って……」
カノンは懐から、セラにもらった財布を取り出した。
「おいおい、それはダメだろ!」
「どうして?」
カノンはローカンの言葉が理解できないらしく、目を見開いた。
「だって、それ借りた金だろ?」
「——あの牙狼が負けるわけないじゃない? まさか、他に賭けるの? 勝って、セラさんと山分けよ」
再び、カノンが耳元で囁く。指先がローカンの手に触れ、思わず彼はため息をついた。
「ローカン様! ローカン様!」
大声で呼びかけてくる声がする。
この声は——オルヴァ村の村長、クライドだ。彼は正装して立っていた。
「どうしてそこに?」ローカンが声をかける。
「島主様に頼まれまして。多くの村の村長も駆り出されていますよ。投票券場の監視です。そのせいで投票できません。——ところで、ヴァル君、すごい人気ですね」
クライドは、投票券に不正防止の印をつけている。
(やはり、競犬場の悪い噂は本当なのか……)
だが、彼らの警備は競犬場の運営には関与していない。
「……ああ、じゃあ、金貨十枚分、ヴァル単勝で」
ローカンは窓口に声をかける。
「それだけでいいんですか?」
「うるさい!」
それでも、一枚銅貨で券一枚だ。千枚にもなる。
「それでも片手で持てるくらいだな。いったい、ノシロはいくら買ったんだよ!」
鐘が二回鳴る。そして——最後の一回が鳴るはずの時間が過ぎた。
(……待てよ? 最後の鐘が……鳴らない?)
振り返って窓口を見ると、地元の人間と思われる男達が大量にまとめ買いしていた。
「よし、競犬場へ行こう!」
「急がないと!」
珍しく、二人の意見が一致した。
※
ノルドは、カイに頼んでマルカスの使っていた手拭いをもらった。
「だけど、これだけの人数がいると、難しいな。ヴァルがいてくれたら何とかなったんだけどな!」
人混みに酔ってしまい、ノルドは競犬場の中で人の少ない休める場所を探した。
競犬場の内側には、芝生に座り込んでいる人がまばらにいた。
「あそこがいいな。ずっと見渡せるし」
そこには、競犬場の障害物を操作する施設もあった。
「あれ? あんなところで、施設の中を盗み見している人がいる。何を見てるんだろう」
好奇心に駆られ、その人物に近づこうとしたその瞬間——
ファンファーレが鳴り響いた。
シシルナ島の大きな旗が振られ、観客たちが一斉に歓声を上げる。
「いけない、ヴァルを応援しないと!」
ノルドはすぐに目的の芝生エリアに向かった。
犬たちが次々とゲートに入っていく。しかし——
ヴァルは走りもせず、座り込んでいた。
小狼は、ここに来るまでに多くの嫌がらせを受けていた。大量の美味しい餌。その中にある毒薬。わざとぶつかってくる他の犬の調教師達。不自然に落ちて来る荷物。
すっかりやる気を無くしていた。
「全く、ヴァルったら……」
リコ調教師に促され、ヴァルはしぶしぶゲートへと入る。
「そろそろ出番よ、ヴァル。セラ母さんに優勝カップを持って帰りましょう!」
リコのその一言が、ヴァルの心に火をつけ、瞳がきらりと輝いた。
競犬場の貴賓席には、ニコラや島主の姿があった。その両隣には、リジェとメグミの姿も見える。
魔法石を使った音声拡張機が競犬場中に響き渡る。
「第100回 アリーマ記念、まもなくスタートです!」
静寂。
次の瞬間、ゲートが開いた——!
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