第四階層
フィオナは一瞬だけ目を伏せ、それからそっと椅子を引き寄せた。
「では、こちらにお座りください。髪は、私が」
ラゼルは拒まずに腰を下ろす。その動きひとつすら、誰かを従わせるに足る威圧と静けさを孕んでいた。
「じゃあ、脱がせますねー」サラの明るい声が、わずかに場を和ませる。
次いで、シルヴィアとリーヴァが無言で歩み寄る。誰に指示されたわけでもなく、自然とその輪に加わり、手にクリームを取った。
誰も、躊躇わなかった。誰も、理由を問わなかった。
女性たちの指先が、丁寧に、静かに、彼の肌に粘液を広げていく。手際は医療のようであり、祈りのようでもあった。
ロッカたちが視線を送ったが、すぐに目を逸らし、無言でテントの片付け作業に戻っていった。
その間、ラゼルは一切動かない。冷たい粘液に包まれながら、ただ目を閉じていた。
その姿は、まるで――
これから火の神殿に足を踏み入れる、選ばれし王のようだった。
「武器と服には、消化液を塗って。それから、コートを貸し出しますので羽織ってください」
ノルドが、慎重にコートを差し出す。透明な薄手のものだ。
「……これもか」
ラゼルの返しは、静かだったが、どこか皮肉のようにも、あるいは微笑のようにも聞こえた。
※
「準備は良さそうですね」
「はーい!」サラが、代表して答える。クリームを塗ったり、コートを羽織ったりするのを人一倍嫌がるかなと思ったが、楽しそうだ。ヴァルとは正反対だ。
全員が、コートを服の上に羽織ったのを確かめて、ノルドは地下四階への階段に進んだ。
ヴァルですら、専用のコートをかぶらせて、全身にくまなく防火クリームを塗っている。
元々、このクリームもコートもヴァルの為に作ったものだ。クリームは、消化薬を改良したもので、感触改良をしている。
第四階層は、階層自体が暗い。いや、漆黒だ。ノルドやヴァル、サラは種族特性で明かりは必要ないが、他のメンバーのことを考えて、先行するノルドは光魔法を使う。後方では、フィオナも使って、パーティの周囲を照らした。
「赤く見えるものは、全て魔物か噴き出す炎ですから」
ノルドが言うが早いか、赤い光が前方から飛んでくる。
「スコーチバットです、集団で飛んできます!」
炎の蝙蝠だ。しかも、頭上に差し掛かると炎の石を落としてくる。
コートに降り注ぐが、「じゅ」っと音を出すと炎が消えてただの小石となって地面に転がった。
ロッカは、盾を頭上に掲げて、ラゼルや女性陣を守っていた。
「ロッカさん、灼熱蝙蝠はぶつかってきますから、よく見て盾を使って!」
通り抜けた蝙蝠は反転すると、高度を落として攻撃を仕掛けてきた。
「ヴァル、いけ!」
ノルドが指示すると、後方の女性陣を守りに走り出した。同時にリコも走り出す。早い魔物の動きにも反応できそうだ。
剣士のダミアーノやラゼルも剣を抜く。振り回すが、こちらは空振りばかりだ。
噛みつこうとして、コートに触れると、纏っている炎が消えた蝙蝠は慌てて逃げ出していく。
数度、往復すると、スコーチバットは、ヴァルやリコに狩られて数を減らして逃げ出していった。
「すごいな、このコート。これってとても高価なものじゃないのか? 対物性能もある」
ロッカたちは、初めて気がついたようだ。
「消火液を塗っただけじゃないのね?」
「違いますよ。透明なコートなんてありませんよ。これはウオータースライムを干したものに消化薬と……まあ、手間がかかってるんですよ」
これも、ドラガンからラゼル王子用に準備するように頼まれたものだった。特秘にしていた装備をどこかで聞きつけたらしい。きっと、東方旅団の報告だろう。
「対火、耐火の高価な服を着用している冒険者であれば、消火液を塗るだけでコートを着る必要はないでしょう」と言ったのだが、それでも準備してくれと言われたのだ。
ロッカたちも連れていくとなると、彼らの装備では中級層は乗り切れないのは、目に見えていた。特に女性陣の軽装では危険だ。そういう意味でも、必要ではあったが。
※
「ヴァルの毛が、炎で変色してしまう」
ただそれだけで遊びで、いや研究で作ったものだった。ある時、中層を散歩しているノルドとヴァルの姿を見かけた東方旅団が、目ざとく自分たちも欲しいと言い出したのだ。
「そんな過剰な装備必要ありませんよ。それに素材がなくて……ウォータースライムとか……」
「何だ。そんなことか。じゃあ、取ってくるよ。他にも必要な素材も教えてくれ。もちろん、加工代は払うから」
「でも、ダンジョン探索の途中ですよね? この島にはウオータースライムは殆どいませんよ」
ノルドが尋ねると、彼らは笑い出した。
「実はさ。ここ暑いじゃん。夏で、外も暑いし。だから、避暑して又、島に帰って来ようかって話になってて。川に、スライム狩りとか涼しそうだなって」
「たいしたお金になりませんよ!」
「うん。でも、その方が楽しそうじゃん。それに危険を少しでも下げる。まわり道してもね、それが俺たち東方旅団の冒険さ」
本気なのか、冗談なのか、わからなかったが、彼らは、一度、夏のシシルナ島を出て、冬に帰ってきた。ノルドの言った素材を持って。
彼らと多く荷運びに同行する中で、ノルドはダンジョン探索のやり方について学んだ。
「いや、俺たちも、ノルドから学んでいるよ」
彼らは謙遜して言ったが、綿密な余裕を持った計画。問題が起きた時のリカバリー案。ダンジョンの地図収集。地元の最新情報の収集、ダンジョンやその地域の歴史書。それらを担当を決めて行い、全員で分析をしていた。
「よく言われるよ。そこまでやる必要あるのって。それじゃあ、冒険を楽しめないよってね」
「ええ、そう思う人もいるでしょうね」
「僕たちが英雄ならば、その通りさ。でも違う。どんなに分析しても、想定外の事態が出てくるんだ。そこで僕たちは又考える『何が間違ってたのかなって』面白いだろう? 」
まるで東方旅団のメンバーは、全員学者のようだったな。ついこの間のことなのに、ノルドの心は懐かしさで溢れた。
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