変わりゆく島
ノルドは調合した薬をそっとカリスの手に渡し、穏やかな声で告げた。
「少しずつだけど、体に溜まった毒は確実に抜けていく。……毎日、欠かさず飲んでほしい」
「本当に! ありがとう! まだ死にたくない。死ねないの」
カリスは、涙をこぼしながら感謝を告げた。
その理由を、ノルドは深くは知らない。彼女の背負う過去も、胸の奥の痛みも、ほんの欠片しか見えていない。
だが──自分のしたことが、確かに彼女を救ったのだと、胸の奥に静かに灯がともるのを感じた。
カリスの机には分厚い書籍が何冊も積まれ、筆記用具も几帳面に並べられていた。ノルドはふとその様子に目を落とす。
「ところで、それは?」
「これ、セラさんから借りてるんだ。それに、講義も受けてる」
「……そうか。羨ましいな、カリスさん」
静かな会話の隙間に、幼い日の記憶がノルドの脳裏をよぎる。
不登校だった自分に、母のセラは根気よく寄り添い、知識という灯火を差し出してくれた。
誰にも奪えない、あの静かな時間。学びとは、単なる知識の積み重ねではなく、魂の再生だったのだ。
母セラは“学者”のジョブを持つ。本人は「広く浅く」と謙遜するが、ノルドにはそれが逆に映った。どの知識も深く、底知れず、そしてどこか温かかった。
「私、大学は途中でやめたけど……また学べるのって、やっぱり嬉しい」
カリスは微笑んだ。その瞳には、知識への飢えが忠実に映っていた。薬学以外ではしばしば眠気に負ける自分とは、あまりにも対照的だった。
「ノルド、眠いなら……私の部屋のベッド、使っていいのよ?」
ちょうど資料を抱えて部屋に入ってきたセラの声。
ノルドは苦笑して首を振った。セラの講義の声が部屋に満ちていく。
それはまるで子守唄のようで、疲れ切った心身にそっと染み込んでいった。
椅子に体を預け、ノルドはゆっくりと瞼を閉じた。
疲労に抗えず、そのまま静かに眠りに落ちていく。
壁際で、狼のヴァルも身を丸めて目を閉じていた。
――その夜。
ノルドがサナトリウムを出ようとしたところへ、疲れていたマルカスたちが現れた。
やがて彼らは再びサルサの部屋に集まっていた。
「ラゼルは、魔剣に人の魔力を食わせている」
マルカスの言葉に、サルサの顔が怒りに染まる。
「そんなことは見りゃわかるだろうが」
「違うんだ。貯めた魔力を使おうとしない。頑なに、な」
カノンも険しい顔で頷いた。
「ああ、普通の魔剣にそんなに魔力を溜められるものか……」
戦の経験豊かな彼らにとって、その異常さは身震いするほどの脅威だった。
「どうにかして封印しないと。無理にでも取り上げるべきだったか?」
「お前は甘いよ……」サルサは冷たい視線をマルカスに向けた。
しかし、あの場で力ずくで奪い取ることはできなかった。
失敗すれば、血みどろの修羅場になる。いや、魔剣がどのような力を爆発させるかわからない。マルカスでさえそれを恐れた。
「悪い、ノルド。調べてくれ!」
「はい、やってみます」
※
翌朝。
王子ラゼルによるダンジョン探索の日。薄靄が漂う中、ダンジョン前に探索隊が集まっていた。
ラゼル一行、ロッカグループ、ノルド、そして見送りに来たドラガン。
「……おい、フィオナ。カリスはどうした?」
ラゼルの声は静かだったが、その端々に底冷えするほどの怒気が潜んでいた。
「……まだ体調が戻らず、入院中です」
「は? どこにいる? 迎えに行く。あれは“俺のもの”だ」
ノルドは耳を疑った。まるで物のように扱う言葉遣いに震えた。
「……もちろん次回の探索には必ず。ロッカさんたちも来ますし、今回はこのままで」
フィオナが即座に繕うように答えると、ラゼルはゆっくりと視線をロッカたちに向けた。
彼らは一瞬戸惑ったが、シルヴィアとリーヴァが左右から寄り添い、媚びるような囁きを漏らす。
「私たちも、きっとお役に立てます……ね?」
冒険者らしからぬその振る舞いに、ロッカたちは制止することなく、むしろ笑みを返した。
――何かが、確実に変わっている。
ノルドの胸に、説明のつかない違和感が膨れ上がった。
「荷運び。お前も戦え。カリスを勝手に連れ出したと聞いた。責任を取れ」
唐突に、ラゼルの言葉がノルドを射抜いた。
「えっ……それは……俺の役目では……!」
動揺するノルドの隣で、ドラガンが静かに口を開いた。
「ノルド。他人のパーティメンバーを無断で連れ出すのは、たとえ病人でも規律違反だ。今回の埋め合わせをしろ」
「ですが……」
「副ギルド長としての命令だ。カリスは私が責任を持って連れ戻す」
命令は絶対だった。ドラガンは王子の言葉に逆らえない。
ノルドの胸に、言葉にできない黒い霧が重く垂れ込めた。
「わかりました。戦闘に参加します」
ノルドのそう言うしかない一言に、ラゼルは頷いた。屈服させた愉悦に浸り、彼は微笑みを浮かべた。
シシルナ島が目に見える形で、狂い始めていた。
ダンジョンの上、鴉が大声で鳴きながら横切って飛んでいった。
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