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ブロイ伯爵と蜂蜜飴


 グラシアスたちは、賠償金の帳簿に名を連ねていた共和国屈指の名門――ブロイ伯爵家を訪れることにした。


 この家の令嬢、リリアンヌ•ブロイは、共和国の社交界の花と言われ、類稀な美しさと歌声で多くの人を魅了し、時の人だった。


 あの、ラゼルと出会うまでは。

「リリアンヌについては、調べました。病にかかり、死の淵迄行ったらしいです。それ以降、姿を見たものがいないと」


 セイは、既に情報収集を終えていた。というのも、一時期、ラゼルと交際していた噂があったからだ。

「ですが、すいません。それ以上は調べれませんでした」


 新聞記者のセイを連れていけば、ブロイ伯爵を刺激する。

「じゃあ、別行動だ」

 セイには新聞記者としての人脈を活かし、他の被害者の調査に奔走してもらう。


 異常な賠償額からも、ブロイ家の名誉を傷つけた以外の理由、病気とラゼル王子の犯行の関連性を示しているだろう。


 パリス郊外。静かな森に囲まれた丘の上。

 石造りの堀と鉄柵に護られたその邸宅。冷えた石壁には、悠久の時を刻む重さと誇り高き血統の残り香が漂っていた。


「聖王国商人、グラシアスです」

 訪問の旨は、すでに通達済みだ。

 応対に現れたのは、共和国ではその名を知らぬ者のない重鎮――ブロイ伯爵本人であった。


 軍人としての武勲。美術と科学サロンの庇護者としての顔。

 幾多の小国を束ね、共和国を形作ったとされる稀代の政治家。

 老いたとはいえ、その立ち姿には老獪さの奥に隠しきれぬ威風があった。


「……おお、久しいな」

 形式的なあいさつを交わし、応接室へと通される。

 大理石の床に緋色の絨毯。壁を飾るのは新進作家の絵画と、希少な魔道具。


 先進性と古き権力が静かに呼吸する空間だった。

 ブロイがソファに腰を下ろした瞬間、空気が一変した。

「……何の用だ。お前が自ら動くとは、碌でもない話に決まっている」

 抑えた声音に、怒気が籠る。

 重たい沈黙が部屋を包み、壁の絹すら軋むかのようだった。


「いえ、ただの商談です」

「嘘をつけ。モンクのもとに行ったことは知っている。――くだらぬ工作はやめておけ、グラシアス」

 その眼光に宿るのは、老いた者の鈍さではない。


 ……モンクが情報を漏らしたとは考えにくい。

 つまり、奴隷商人ギルドそのものが、この男の監視下にあるということだ。

 百戦錬磨の猛禽。その知略と支配力は、未だ衰えていない。


 だが今、この部屋に仮面はない。

「いきなり本題では失礼かと思いまして。――私が今回お伺いしたのは、ラゼル王子の件です」

「……ふん、やはりそれか。済んだ話だ。過去は変えられん。いや噂話が広がって困っておるのだ」

 吐き捨てたような声。その端に、微かに震えが滲んでいた。


 隣にいたガブリエルが、静かに一歩前へ出る。

「私は、《真実の声》の祝福を受けております」

「……知っている。説法が上手く、誠実な男だと聞く。だが、それが何だ」

 声音に混じるのは、怒りとも焦燥ともつかぬ鋭さ。


 それは――踏み込んではならぬ領域への警告だった。

「推測するに、あなた方は今も苦しんでおられる。どうか……お嬢様と直接、話をさせていただけませんか」

 返答はなかった。


 代わりに、伯爵は剣へと手を伸ばした。

 無駄のない動作。柄に触れた刹那、刃はすでに宙を裂いていた。


 閃光。

 ガブリエルの首元に、細く浅い裂傷が走る。

 肌が割れ、鮮血が静かに滴り落ちる。

 緋の絨毯に、さらに深い紅が沈んでいった。


 だが、助祭は動じなかった。

 怯えず、眉ひとつ動かさず。

 まっすぐ、主を見る。


 ――死を恐れず、痛みに背を向けず。

 それが信仰者の姿であるならば。

 この男はまさに、それを体現していた。


 グラシアスが慌ててノルド製のリカバリーポーションに手を伸ばしかける。

 が、その手を止める。

「好きにしろ」

 ブロイが低く呟いた。


 否――そう言わされたのだ。

 ガブリエルは軽く手を挙げ、口を開いた。


「ポーションは結構です。――代わりに、蜂蜜飴をいただけますか?」

 一瞬、場の空気がゆるむ。

 場違いな一言に、グラシアスはぽかんとした顔を見せたが、すぐに袋を取り出し、手渡した。


 ガブリエルはそれを受け取ると、首に手を当てて目を伏せる。

 祈りの形のまま、掌から光があふれた。

 傷口が、音もなく塞がっていく。


 癒しのスキル《癒しの手》。

 血に濡れた上着を脱ぎ、ガブリエルは静かに立ち上がった。

 蜂蜜飴の袋を握ったまま、軽く会釈する。

「ありがとうございます。お嬢様の部屋へ向かいます」

 その背中を、ブロイは黙して見送った。

 そしてぽつりと漏らす。


「……確かに。教会には惜しい男だな」

 やがて、剣を納める。

 床に落ちた血が、緋の絨毯へ静かに沈んでいった。

「話を続けよう。――グラシアス。お前の目的、すべて話してみろ」

 老いた政治家の声は、今度は静かだった。

 だがその眼差しには、なおも試すような光が、静かに潜んでいた。


お忙しい中、拙著をお読み頂きありがとうございます。もしよろしければ、ご評価をいただけると幸いです。又、ご感想をお待ちしております。

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