ブロイ伯爵と蜂蜜飴
グラシアスたちは、賠償金の帳簿に名を連ねていた共和国屈指の名門――ブロイ伯爵家を訪れることにした。
この家の令嬢、リリアンヌ•ブロイは、共和国の社交界の花と言われ、類稀な美しさと歌声で多くの人を魅了し、時の人だった。
あの、ラゼルと出会うまでは。
「リリアンヌについては、調べました。病にかかり、死の淵迄行ったらしいです。それ以降、姿を見たものがいないと」
セイは、既に情報収集を終えていた。というのも、一時期、ラゼルと交際していた噂があったからだ。
「ですが、すいません。それ以上は調べれませんでした」
新聞記者のセイを連れていけば、ブロイ伯爵を刺激する。
「じゃあ、別行動だ」
セイには新聞記者としての人脈を活かし、他の被害者の調査に奔走してもらう。
異常な賠償額からも、ブロイ家の名誉を傷つけた以外の理由、病気とラゼル王子の犯行の関連性を示しているだろう。
※
パリス郊外。静かな森に囲まれた丘の上。
石造りの堀と鉄柵に護られたその邸宅。冷えた石壁には、悠久の時を刻む重さと誇り高き血統の残り香が漂っていた。
「聖王国商人、グラシアスです」
訪問の旨は、すでに通達済みだ。
応対に現れたのは、共和国ではその名を知らぬ者のない重鎮――ブロイ伯爵本人であった。
軍人としての武勲。美術と科学サロンの庇護者としての顔。
幾多の小国を束ね、共和国を形作ったとされる稀代の政治家。
老いたとはいえ、その立ち姿には老獪さの奥に隠しきれぬ威風があった。
「……おお、久しいな」
形式的なあいさつを交わし、応接室へと通される。
大理石の床に緋色の絨毯。壁を飾るのは新進作家の絵画と、希少な魔道具。
先進性と古き権力が静かに呼吸する空間だった。
ブロイがソファに腰を下ろした瞬間、空気が一変した。
「……何の用だ。お前が自ら動くとは、碌でもない話に決まっている」
抑えた声音に、怒気が籠る。
重たい沈黙が部屋を包み、壁の絹すら軋むかのようだった。
「いえ、ただの商談です」
「嘘をつけ。モンクのもとに行ったことは知っている。――くだらぬ工作はやめておけ、グラシアス」
その眼光に宿るのは、老いた者の鈍さではない。
……モンクが情報を漏らしたとは考えにくい。
つまり、奴隷商人ギルドそのものが、この男の監視下にあるということだ。
百戦錬磨の猛禽。その知略と支配力は、未だ衰えていない。
だが今、この部屋に仮面はない。
「いきなり本題では失礼かと思いまして。――私が今回お伺いしたのは、ラゼル王子の件です」
「……ふん、やはりそれか。済んだ話だ。過去は変えられん。いや噂話が広がって困っておるのだ」
吐き捨てたような声。その端に、微かに震えが滲んでいた。
隣にいたガブリエルが、静かに一歩前へ出る。
「私は、《真実の声》の祝福を受けております」
「……知っている。説法が上手く、誠実な男だと聞く。だが、それが何だ」
声音に混じるのは、怒りとも焦燥ともつかぬ鋭さ。
それは――踏み込んではならぬ領域への警告だった。
「推測するに、あなた方は今も苦しんでおられる。どうか……お嬢様と直接、話をさせていただけませんか」
返答はなかった。
代わりに、伯爵は剣へと手を伸ばした。
無駄のない動作。柄に触れた刹那、刃はすでに宙を裂いていた。
閃光。
ガブリエルの首元に、細く浅い裂傷が走る。
肌が割れ、鮮血が静かに滴り落ちる。
緋の絨毯に、さらに深い紅が沈んでいった。
だが、助祭は動じなかった。
怯えず、眉ひとつ動かさず。
まっすぐ、主を見る。
――死を恐れず、痛みに背を向けず。
それが信仰者の姿であるならば。
この男はまさに、それを体現していた。
グラシアスが慌ててノルド製のリカバリーポーションに手を伸ばしかける。
が、その手を止める。
「好きにしろ」
ブロイが低く呟いた。
否――そう言わされたのだ。
ガブリエルは軽く手を挙げ、口を開いた。
「ポーションは結構です。――代わりに、蜂蜜飴をいただけますか?」
一瞬、場の空気がゆるむ。
場違いな一言に、グラシアスはぽかんとした顔を見せたが、すぐに袋を取り出し、手渡した。
ガブリエルはそれを受け取ると、首に手を当てて目を伏せる。
祈りの形のまま、掌から光があふれた。
傷口が、音もなく塞がっていく。
癒しのスキル《癒しの手》。
血に濡れた上着を脱ぎ、ガブリエルは静かに立ち上がった。
蜂蜜飴の袋を握ったまま、軽く会釈する。
「ありがとうございます。お嬢様の部屋へ向かいます」
その背中を、ブロイは黙して見送った。
そしてぽつりと漏らす。
「……確かに。教会には惜しい男だな」
やがて、剣を納める。
床に落ちた血が、緋の絨毯へ静かに沈んでいった。
「話を続けよう。――グラシアス。お前の目的、すべて話してみろ」
老いた政治家の声は、今度は静かだった。
だがその眼差しには、なおも試すような光が、静かに潜んでいた。
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