静謐の中庭 ※蠱惑の魔剣34
サナトリウムへの坂道。
その先を閉ざす大門。
山肌を縫うように続く細道の果てに、それは静かにそびえていた。高く、厚く、古びてなお威厳を湛える鉄の扉。その向こうは、病と回復のあいだにある静謐な領域——選ばれた者だけが踏み入れる私有地だ。
大門の脇には、私設の警備員たちが無言で立つ。だがその眼差しは、訪れた者によって柔らかさを変えた。
ノルドは、顔見知りだった。いつも差し入れをくれる、優しくて気の利く子。門番たちにとっても、安心と信頼の対象だ。
「どうした、ノルド! 今日は何の用だ?」
先頭を走るヴァルと、カリスを背負うノルドの姿を見て、門番たちの声に緊張が混じる。
「急患です。サルサ様にご連絡を」
「……ああ、わかった!」
ぎりり、と鈍い音を立てて門が開く。緊急対応とはいえ、ノルドでなければ、この早さでは通されなかっただろう。
「サルサ様が診療室でお待ちだ」
許された道。ノルドは大きく息を吐き、一瞬その場に足を止めたのち、再び駆け出そうとする。
「この先は急坂だ。乗っていけ!」
門番たちが馬車を手際よく整え、ノルドたちを揺れの少ない後部へと乗せる。
そのまま石畳を駆け上がり、馬車はサナトリウムの奥へと向かった。
※
診療室。
サルサは、運び込まれたカリスを無言で見つめていた。
その視線には、思案の影と、かすかな微笑みが混じっている。
彼女はカリスを静かに寝かせ、白い魔力吸収布を全身に丁寧に当てた。
その所作は、まるで儀式のようだった。
「ノルド。この子の病気はなんだと思う?」
「……わかりません。布の色も変わってません。魔力も、汚れてないです」
布は、確かに無反応だった。
だがその静けさの中で、カリスの呼吸が、徐々に落ち着いていくのがわかった。
ノルドの脳裏に、ある確信が走る。
「あっ……魔力が、過剰蓄積されてる!」
それは単純なことだった。
焦りのなかで、見落としていたのだ。
ノルドは自らの未熟さを噛みしめ、唇を噛んだ。
「ははは。だがそれは症状だ。原因を調べないといけない。この子は入院させる。感染症だと、まずいからな」
「……わかりました」
看護婦たちが手早くカリスの衣服を脱がせ、着替えを始める。
その瞬間、ノルドは顔を赤らめ、慌てて診療室を飛び出した。
だが、胸の奥には、別の感情が残った。
「でも、良かった……」
思わず漏れたその言葉とともに、ノルドは気づいていた。
カリスは、どこか母セラと似た空気を纏っている。
凛としていて、何かを背負っていて、それでも、どこか脆い。
※
待合室には、サラとヴァルがいるはずだった。
だが、姿がない。
そのとき——中庭から、聞き覚えのある声が響いた。
「あー、これ美味しい!」
サラが簡素な朝食を頬張りながら、目を細め、嬉しそうに笑っていた。
隣でヴァルも、満足げにもらった骨付き肉を食べ進めている。
その朝食は——母セラの手料理だった。
「ノルドも座って。朝食まだでしょ」
驚いて振り返ると、いつの間にか背後にセラが立っていた。
柔らかな手が、そっとノルドの肩に触れる。
「うん……」
「私も一緒に食べるから」
その言葉に、ノルドは胸の奥が少しだけ震えた。泣きそうになるのを、なんとか堪える。
穏やかな陽射し。揺れる木々。煮込みとパンの香り。
朝の中庭の食卓は、戦火の予感を遠ざけるように、温かく静かだった。
※
食事中の話題は、サラがノルドに武器を習っている話、シシルナ島の食文化について。
ラゼル王子のことも、自分たちの過去も——語られない。
それは、意図された静けさだった。
「サルサ様が、診察に来るようにって」
「えー、どこも悪くないのに!」
むくれるサラの手を、セラはそっと取り、席を立つ。
「私も一緒に行ってあげるわ。時間がかかるから、ノルドは帰ってなさい」
「でも……」
「あの老人たちに捕まるわよ!」
その一言に、ノルドはぞっとしたように背筋を伸ばす。
元英雄たちの三人組——彼らに捕まれば、遊びの相手をさせられて時間が溶けてしまう。
サラを待とうかとも思ったが、ヴァルが席を立ったのを見て、ノルドも後を追った。
朝の中庭。風が、をなぞるように通り過ぎていく。
※
ノルドは、いつもなら見送ってくれるセラが、そそくさと屋敷に戻ったことに、わずかな寂しさと違和感を覚えながら、サナトリウムを後にした。
せっかくの休日だ。
ドラガンたちの魔物討伐隊は気になるが、今日はひと息つこう。
ラゼル王子の探索再開も、まだ予定は立っていない。
「どこ行こうか?」
「ワオーン!」
ヴァルの提案は、港町。うまい魚が食べたいらしい。
ノルドは久しぶりに、港町にあるノシロ雑貨店を訪ねることにした。
珍しく、何の用事もなく——ただ、行ってみたくなった。
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