アマリの恋
アマリの最も古い記憶は、ミルクのぬくもりだった。
飲ませてくれていたのは──たぶん、ネフェルではなかった気がする。セラだったかもしれない。
けれど、それ以上に鮮明に焼きついているのは、隣にいた赤ん坊の存在だった。
自分と同じくらいの年頃で、泣きもせず、ただ黙って、じっとこちらを見ていた──。
のちにそれがノルドだったと知ったときの衝撃と、心の底から湧きあがった歓びは、言葉にならなかった。
──つまり、リコよりも、もっとずっと昔から知っているということだ。
長かったようで、短くもあったシシルナ島での療養生活。
サナトリウムに閉じ込められ、中庭くらいしか出歩くことはできなかったけれど、元英雄のおじいちゃんたちとの日々は静かで、あたたかくて、笑いに満ちていた。
そして──お姉ちゃんと共に現れた、優しい少年。ノルドと、その友人の狼、ヴォル。
彼とのお茶会はいつも特別だった。今日も来てくれるだろうかと、カーテンの隙間から空を見上げては待っていた。
そして病が癒えた今、再び戻ってきたのは、喧噪きわまる聖王国の現実だった。
静謐だったあの時間は、まるで帳尻を合わせるかのように、嵐のような日々の中へと吸い込まれていった。
勉学に、聖女の妹としての所作。そして──何よりも、ネフェルの随行。
「お姉ちゃん、私、今日は留守番でもいいかな」
「駄目に決まってるでしょ」
まったくもう……。
ゆっくりした時間を奪っていく犯人は、他でもないネフェルなのだ。
──あのとき過ごせなかった時間を、彼女は必死に取り戻そうとしているのだろう。
アマリとネフェルに血のつながりはない。
北の魔の森に捨てられていた赤子──それが、アマリ。
拾ったのは、その森でたった一人、生きていた少女。すなわち、ネフェルだった。
アマリを育てるために、彼女は聖女となった。
……いや、違う。アマリは知っている。
ネフェルは、ただの聖女ではない。冷静に、歴史の文献をひもとけば、いくつもの違和感に気づくはずだ。
そして、アマリは確信していた。
「大聖女」──数百年に一度、歴史の深層にその名を刻む、特別な存在だということを。
その事実を思い出すたびに、背筋が静かに伸びる。
『大陸に災いが訪れる時、大聖女が現れる』
怖かった。けれど、それ以上に──その背に並び立つために、力をつけたいと、心の底から願った。
「……シシルナ島に、また行きたいな」
ネフェルと交わした、あの祝祭の旅は、まだ果たされていない約束だった。
そんな想いを胸に抱いていたとき、アマリの前に現れたのは、王都とシシルナ島を往復する大商会長、グラシアスだった。
「ノルドのこと、教えてくれる?」
「もちろんだ。手足はすっかり癒え、背も伸びていた。──これが、ノルドからの手紙だ」
彼は、収納魔法から上等な袋と、長文の手紙を取り出して見せた。
「ああ、早く渡して……お姉ちゃんの分もあるのか? ……仕方ないな」
部屋に戻って読むのが楽しみで仕方ない。けれど、それ以上に──袋の中身が、気になってしかたがなかった。
ネフェルが手を伸ばした瞬間、アマリはその手をぴしゃりと叩く。
「見せ合いっこしよう、姉ちゃん」
ノルドの薬は、いつもそうだ。相手を想い、特別に調合されたものばかり。
アマリの袋の奥に、見慣れた蜂蜜飴が見えた。
「いつもの蜂蜜飴か」
ネフェルは、アマリの手をすり抜けて、一粒を口に放り込む。ふっと、やわらかな笑みが零れた。
その笑顔に、胸の奥がつんと痛む。アマリの瞳に、思わず涙がにじんだ。
「……ごめん」
ネフェルは珍しく、申し訳なさそうに微笑んだ。そして、自分の袋からもう一粒、飴を取り出す。
「絶対に、今年の祝祭は一緒に行こう。今度こそ──約束する。……ほら」
差し出された二粒の蜂蜜飴を、アマリは両手でそっと受け取った。
ネフェルは、天衣無縫だ。言いたいことを言い、気まぐれで、誰の顔色も窺わない。
けれど──彼女ほど真剣に、人々のことを思っている者はいない。
彼女には私心がない。
……妹のこと以外には。
※
その日、共和国都パリスでの祝祭には、聖女の姿をひと目見ようと、遠方からも多くの民が訪れていた。
「なんて美しい精霊の踊りだ!」
「これが噂に聞いた聖女様の御力か!」
アマリの唄と精霊の舞は、観る者の魂を揺らし、ネフェルの祝福には、老若男女を問わず誰もが涙した。
けれど、祝祭の華やぎの後で──事件は起きた。
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すいません。後編に続きます。