シシルナ島物語
ネフェル聖女は、無駄な言葉を口にすることはなかった。
「精霊王様のお怒りはおさまりました。ですが、島民の皆様の行い次第では、再びお怒りになるかもしれません。一人ひとりが、生き方を見直してください」
その静かな声は、まるで清流が心に染み込むように、島民たちの胸へと届いていった。ネフェルは人々を見回し、ふわりと微笑む。
次の瞬間、空から優しい『祝福』の光が降り注ぎ、広場いっぱいに輝きが広がった。
その光は、ニコラにも届いていた。傍らには、メグミとリコが寄り添っている。
リコは静かにニコラの手を握りしめ、メグミはその肩に優しく手を添えていた。
「ばぁば、綺麗だね」
リコの声が響く。
光の粒は、彼女の周囲だけ、ひときわ強く輝いていた。
「これが……聖女様の力……」
「俺は、何を見ていたんだ……」
随行員たちは、噂でしか知らなかった聖女の力を目の当たりにし、言葉を失って立ち尽くした。
傲慢さを打ち砕かれた彼らは、きっと帰国後、誇張ではなく、真実を語ることになるだろう。
※
シシルナ島の初めての夏祭りは、大成功のうちに幕を閉じた。
カノンとセラは、セラの家で、ふたりきりの祝杯をあげていた。
「母さん、セイたちとの打ち上げに呼ばれて……」
ノルドは、やむなく――いや、むしろ気を遣って、シシルナ島新聞社のホームパーティに参加することになった。
「おっ、来たね、ノルド。じゃあ、再び乾杯しよう! シシルナ新聞号外の大成功に!」
セイが言うと、ジュースの入ったコップがノルドに手渡され、ヴァルにはグラシアスのお土産の干し肉が振る舞われた。
「今日は、夜遅くても大丈夫なのか?」
「隣の飲み屋で、ニコラ孤児院の卒業生が飲んでるから後で迎えが来るんだよ!」
「それじゃ、みんなでゲーム大会だぁ!」
彼らにとって、いつもはできない夜遊びの時間。ノルドにとっても、いつもとは違う遊びの時間だった。
そのころ、彼らの会社のある繁華街では、夏祭り終わりの観光客で溢れる中、高級な酒屋を借り切って「マルカス会」なるものが開かれていた。
「今日の飲み代は、全部マルカス持ちだ!」
「おいおい、そんなに金はないぞ!」彼はあきらめて深く溜息をついた。
「借金は男の勲章だ……と聞いたことがある。マルカス様の言葉だ!」
「かんぱーい!」
マルカスと彼を慕う貴族や商人、そして孤児院の卒業生たち――有名も無名も混ざり合い、笑い合っていた。それは、極めて濃密な情報交換会でもあった。
彼らは、宿舎代わりの孤児院を追い出されていた。
なぜなら――ニコラ・ヴァレンシア孤児院では、女子会が開催されていたからだ。
怖くてその場にいたいと思う男など、ひとりもいなかった。
そして明け方、女子会の終わりを見計らい、彼らはそっと孤児院へと戻っていった。
一方、サナトリウムでは、アマリのデビュー成功を祝う会が開かれていた。
「ああ、見たかったなぁ……」
元勇者たちは口を尖らせていたが、アマリが再演してくれると知ると、すぐに機嫌を直した。
そんなふうに、皆が思い思いの真夏の夜を過ごしていた。
※
船は、静かに進んでいく。
夏祭りを楽しんだ観光客や、オークションを目指していた商人、貴族たちも、満足げな表情で島を後にする。旅の終わりを感じさせる、少しの寂しさが空気に漂っていた。
ニコラ・ヴァレンシア孤児院の丘では、再び卒業生たちが集まり、それぞれの新たな一歩へと向けて、別れを告げていた。
彼らは皆、今回が“最後の別れ”であることを理解していた。
「じゃあね、母さん」
「愛してるよ、ニコラ母さん」
言葉が返せないニコラ。しかし卒業生たちは一人ずつ、静かにその手を握りしめ、胸に刻んでいった。
その傍らにいるのは、メグミと島主。彼らもまた、この瞬間を黙って見守っていた。
ニコラは、孤児院の丘のサンチェアにもたれ、ゆっくりと旅立つ船を見送っていた。彼女の眼差しは、誰にも読まれることなく、ただ深く、澄んでいた。
「じゃあ、アマリ。次には迎えに来るわね」
「はい、お姉ちゃん、待ってます」
ネフェル一行は、見送りに集まった多くの島民たちに手を振りながら、シシルナ島を離れていった。
「セラ様、お身体を大切に」
商会長グラシアスも、渋々ながら帰路に同行する。自由時間がほとんどなかったことへの不満を胸に、しかしどこか嬉しげに、自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「ええ、気をつけますわ。グラシアスも、仕事とお酒はほどほどにね」
「ははは、そうですね。冬にはまた来ます。そうしないと、飲み過ぎてしまいますから」
「本当に困った商会長ね」
セラが、優しく笑いながら返す。
カノンは、ノルドやセイたちと共に、港の堤防に立っていた。
「ここが、最後に近くで船を見送れる場所よ」
多くの船がシシルナ港を離れていく中、ひときわ美しい聖王国の特別船が、ゆっくりと通過していった。
その甲板に立っていたのは、ガブリエルだ。おそらく、ネフェルの計らいだろう。
「おーい、ガブリエル! ここだよ!」
セイたちの声に、ガブリエルは波の光を見下ろしていたが、ふと顔を上げる。そして、にっこりと笑って手を振り、大声で叫んだ。
「母さん、お元気で! また会いましょう!」
カノンの目に、ほんの少し涙が滲む。けれど、それを拭おうとはしなかった。
船はやがて、視界の彼方へと消えていった。
島には、再び、静かでゆっくりとした時間が流れ始めていた。
※※※
第二部完結致しました。
もしよろしければご評価、フォロー頂けますと幸いです。
お忙しい中、拙著をお読み頂きありがとうございます。もしよろしければ、ご評価をいただけると幸いです。又、ご感想をお待ちしております。