プロローグ
世界は、二つの巨大な勢力に引き裂かれていた。
それは思想でも信仰でもなく、生まれ持った在り方そのものによる分断だった。
一つ目は、人族、森に生きる長耳人、山岳の鍛冶を司る地土人、自然そのものと同化した精霊、鬼族、他にも多くの種族がいる。
対する勢力は、魔族が支配する闇の陣営。
魔族は生来より強靭な肉体と高い再生能力を持ち、痛覚や恐怖を超越したかのように戦場を闊歩した。
血が流れる限り彼らは倒れず、命を削る消耗戦においては無類の強さを誇る存在だった。
両陣営の衝突は、もはや「戦争」という言葉では生温い、それは季節の巡りのように繰り返される、世界の呼吸そのものだった。
国境線は曖昧で、昨日まで人の村だった場所が、翌日には魔族の死骸で埋め尽くされることも珍しくない。
この日もまた、名もなき平原が血に染まろうとしていた。
「魔族の奴らだァァ!」
怒号とも悲鳴ともつかぬ叫びが戦場を裂いた。
叫んだのは一人の青年。
名を『アルバス』という。
年若いながらも人族の剣士として戦場に立つ彼は、何度も刃を交えてきたはずだった。
だが、魔族の圧はそれまでとは次元が違っていた。
「くそ……数が多すぎる……!」
荒く息をつくたび、肺の奥に血の味が広がる。
仲間たちはすでに倒れ、ある者は四肢を失い、ある者は原形すら留めていなかった。
魔族たちは倒れてもなお蠢き、裂けた肉がうごめくように再生して立ち上がってくる。
――終わらない。
――倒しても、倒しても。
持久戦に持ち込まれた時点で、人類側に勝ち目はなかった。
「クソ……ここまで、か」
アルバスの剣は、魔族の一撃を受け止めきれずに砕け散った、折れた刃が宙を舞い、乾いた音を立てて地に落ちる。
彼は膝を折り、血に濡れた大地へと片手を突いた。
視界が揺れる。
魔族の影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
勝利を確信した獣のような笑みを浮かべ、剣を高く振り上げた、ここで終わり、か。
そう思った、その瞬間だった。
轟音とともに、風が爆ぜた。
刃が振り下ろされるよりも早く、一陣の烈風が戦場を横断する。
巻き上げられた砂塵が視界を覆い、魔族の身体が紙屑のように吹き飛ばされていく。
悲鳴すら上げる暇はなく、肉体は引き裂かれ、大地に叩き伏せられた。
アルバスは思わず目を見開いた。
何が、起きた?
風が収まり、砂埃が晴れていく、その中心に、一人の騎士が立っていた。
漆黒の甲冑に、皇国の紋章を刻んだ外套。
兜の奥から覗く瞳は冷え切っており、戦場をただ「処理すべき対象」として見下ろしている。
その周囲には、もはや動く魔族の姿は一体もなかった。
「皇帝……騎士様……」
アルバスの口から、震える声が漏れる。
皇帝騎士、それは人類側最強の称号にして、人類が魔族に対抗するために生み出した切り札、一個師団に匹敵する戦力を持ち、戦場に現れた時点で勝敗が決する存在。
騎士は折れた剣と血にまみれた青年を一瞥すると、短く言い放った。
「まだ生きているな。運がいい」
その声には慈悲も侮蔑もなく、ただ事実だけがあった。
アルバスは答えられなかった。
恐怖と安堵、そして圧倒的な力への畏怖が、胸の奥で渦巻いていた。
彼は知らなかった。
この出会いが、自身の運命を、そしてこの戦争の行方を、大きく変えることになるということを――。
♢♢♢
少年の名は『リオン・リヴィレオディア』。
その容姿は、ひと目見ただけで忘れがたいものだった、髪は左右で色が異なり、片側は深海を思わせる蒼、もう片側は夕焼けのような紅。
二つの血、二つの運命をその身に宿しているかのように、境界は不自然なほど鮮明だった。
瞳もまた同じだ、蒼い眼は静かな理性を、紅い眼は燃え盛る情熱を宿し、それぞれが髪色と呼応するように輝いている。
その少年が今、静かな部屋の中で立ち尽くしていた。
古びた木造の家屋、朝の光が窓から差し込み、床に淡い影を落としている、壁に掛けられた一枚の写真――否、正確には“写し絵”が、リオンの視線を引き留めていた。
リオンは背を正し、深く息を吸う。
胸の奥で何かが軋む音がしたが、それでも歩みを止めることはなかった。
「……行ってきます」
それは誰に向けた言葉でもない。
だが、写真の中の全員が、確かにそれを聞いているような気がした。
リオンは扉に手をかける、木の感触は冷たく、現実の重さをそのまま伝えてくる。
ギィ……と、軋む音を立てて扉が開く、外には、戦火の匂いを孕んだ風と、まだ終わらぬ世界が広がっていた。
少年は一歩、外へ踏み出す。
今日は何を隠そう、騎士試験の日だった。
魔族と対抗し得る力を求め、全国各地から名だたる騎士や、有望な若者たちが集う日。
それは単なる登竜門ではない、生き残れば英雄への道が開き、落ちれば名も残らず消える、そんな選別の場でもあった。
リオン・リヴィレオディアもまた、騎士を志す少年の一人だ、理由は単純で、そして重い。
この戦乱の世で、生き延びるため。
そして、失ったものに意味を与えるため。
だからこそ、今日は遅刻など許されない。
リオンは走りながら、ふと足を止める。
細い路地の先、建物が連なるその向こうに、目的地への最短ルートが見えていた。
上だ。
彼は躊躇なく空を仰ぐ、雲ひとつない朝の空。
昇りきらぬ太陽が、少年の蒼と紅の髪を照らし、境界線をより鮮やかに浮かび上がらせる。
次の瞬間、リオンは低く身を沈めた。
「十二干体術、鼠の瞬脚!!」
足元が爆ぜる。
地面を蹴った衝撃が、音より先に身体を押し上げた。
風を切り裂く感覚。
視界が一瞬で切り替わり、景色が下へと流れていく。
リオンの身体は、まるで重力から解放されたかのように跳躍した。
両手が屋根の縁を捉え、反動を利用して身体を引き上げる。
次の瞬間には、すでに屋根の上。
瓦の上を軽やかに踏み、彼は一気に走り出した。
街路は足元に広がり、人々の営みが遠くなる。
朝日が、真正面からリオンを照らす。
影は短く、進むべき道だけが、はっきりと前に伸びていた。
「最短距離で行くぜぇ!」
そう叫び、リオンは一切の迷いなく屋根を駆け上がっていく。瓦を踏み、軒を蹴り、壁を足場に変えながら高度を稼ぐ動きに躊躇はない。遠回りになる道など最初から選択肢に存在せず、街並みは彼にとって障害物ではなく、ただの通過点だった。試験に遅れるわけにはいかない、その一心だけが胸の奥で脈打っている。
「こらぁぁあ!リオン!!」
朝の空気を切り裂く声に、彼は一瞬だけ肩越しに振り返る。路地では、早朝から洗濯物を干していたおばあちゃんが腰に手を当て、屋根の上の少年を睨みつけていた。叱責されるのは分かっていたが、足は止まらない。
「すみません!」
謝罪の言葉を投げながら、口元は思わず緩んでしまう。怒られるのも日常で、それさえ今はどこか懐かしく、背中を押されているように感じられた。ここで立ち止まるわけにはいかない、前へ行かなければならない。
「全く……あの子は」
呆れた声が背後に残る頃には、リオンの姿はもう屋根伝いの向こうへと遠ざかっていた。
しばらく屋根の上を走り続けていると、前方の視界が開け、街の先に広大な広場が見えてきた。そこにはすでに多くの人影が集まり、甲冑に身を包んだ者、簡素な装備で剣を携える者、魔術師風の外套を羽織った者など、実に様々な姿があった。皆、同じ方向へと足を運び、同じ場所を目指している。
あれが、騎士試験の会場。
胸の奥が、わずかにざわつく。
自分だけが特別なわけじゃない。
あそこにいる全員が、剣を握り、命を賭け、騎士になる覚悟を抱えている。
「よいっと」
軽い掛け声とともに、リオンは屋根から地上へと飛び降りた。着地は静かで、衝撃もほとんど殺されている。目の前には騎士試験の会場、その正門がそびえ立ち、左右には本物の騎士たちが門番として立っていた。鍛え上げられた体躯、隙のない佇まい、纏う空気そのものが、これまで街で見てきた冒険者や自警団とは明らかに違う。
リオンは懐から一枚の紙を取り出す。騎士試験の受験資格を示す正式な証明書だ。それを差し出すと、騎士は無言で目を通し、軽く頷いて道を開いた。余計な言葉はない、それだけで十分だった。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。
中は広大な会場になっており、まるで巨大な広場のようだった。すでに数多くの受験者たちが集まっており、剣を手にした者、鎧の具合を確かめる者、仲間と談笑する者など、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。あちこちから声が飛び交い、ざわざわとした熱気が満ちていた。
「おい、あの女。長耳人族最速のクリムゾン・レッドだろ?」
不意に聞こえた声に、リオンはそちらへ視線を向けた。そこにいたのは、燃えるような赤いツインテールを揺らす女性だった。引き締まった肢体と無駄のない立ち姿、ただ立っているだけで周囲の空気が張りつめる。噂に聞く名が伊達ではないことは、一目で理解できた。
あれが、最速。
その存在を意識した瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。速さに自信のある者ほど、あの称号の重みを直感的に感じ取ってしまうのだろう。
彼女の少し離れた場所には、もう一人、印象的な少女が立っていた。澄んだ青のツインテールを背に流し、背筋は剣のように真っ直ぐ。
整った容姿もさることながら、纏う雰囲気が明らかに違う。騒がしい会場の中にありながら、彼女の周囲だけが不自然なほど静まり返っていた。
だが、不思議なことに、誰一人として、その少女には声をかけようとしない。視線を向けても、すぐに逸らされる。近づこうとする気配すらない。
「おい、あれはゼノンだ。」
囁くような声に、また周囲がざわめく。リオンは人の流れの隙間から視線を伸ばした。そこにいたのは、紫色の軍服に身を包んだ人物だった。
艶のない紫のローポニテール、顔の半分を影に沈めるように深く被られた黒い帽子。
その佇まいは無駄がなく、周囲と一定の距離を保つかのように、ただ一人で静かに立っている。誰かと話す様子もなく、だが確実に“場”を支配していた。
「すげぇな、まじで大物しかいねぇやん!」
誰かの興奮混じりの声が聞こえるが、リオンは首を傾げるだけだった。噂される名前も、漂う緊張感の理由も、正直よく分からない。
――ゼノン? 誰だ、それ。
田舎育ちのリオンにとって、新聞は薪の代わりになることはあっても、読むものではなかった。
戦況だの有名騎士だの、貴族や軍の動向だの、そういった話題は遠い世界の出来事でしかない。知識がないというより、必要だと思ったことがなかったのだ。
だからこそ、彼の視線は純粋だった。
名声でも肩書きでもなく、ただ“強そうかどうか”だけを見ている。
会場を見渡せば、只者ではない気配を放つ者ばかりだ。さっきのエルフの女も、近寄りがたい青髪の少女も、そして今の紫の軍服の男も。
騎士試験とは名ばかりで、ここはすでに才能と怪物の展示場のようだった。
「各員傾聴!!!!!」
鋭く張り裂けるような声が会場全体を貫いた。ざわついていた空気が一瞬で凍りつき、私語は波が引くように消えていく。その声の主は女性だった。高台に立つ彼女は、軍装を思わせる実戦的な服装に身を包み、無駄のない姿勢で広場を見下ろしている。声量だけではない、そこには数多の戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ圧があった。
――一声で、空気を支配した。
リオンは思わず背筋を伸ばす。名も肩書きも知らない、それでも分かる。この女性は“試験官”などという生易しい存在ではない。ここに集められた全員を、必要とあらば容赦なく切り捨てる側の人間だ。
女性は静かに視線を巡らせ、数多の受験者一人ひとりを値踏みするように見渡す。その瞳には期待も情けもなく、あるのはただ一つ――戦力として使えるか否か、その判断だけだった。
「これより、騎士試験を開始する」
短く告げられたその言葉に、会場の空気がさらに張り詰める。
明日は2話公開させて頂きます




