零話 『土御門一族』
土御門──この名を聞けば真っ先に連想させられるのは陰陽師。
「この度はまことに、ありがとうございました……」
厳粛な空間で最奥の小上がり、御簾越しに見える烏帽子と狩衣姿の子供に、頭を下げるキッチリとしたスーツ姿の男が大仰に平付した。
「祈祷により、我々も潤いまし、此方をお納めさせていただきます……」
男はひれ伏したまま、脇に据えていた土御門の使用人が、子供の前に大きな重箱を差し出す。
当然のように子供は何も言わない。
「……」
重苦しい空気のなか、御簾の外に居る老婆が、子供を一瞥し、嗄れた声を上げた。
「表を上げぇ」
男は促されるまま顔を上げ、真剣な眼差しで子供を見据える。
こうした圧倒的立場の違い、身分の違うものに掛ける言葉はない。子供は老婆を扇子で招き、言葉を伝えた。
だがそれもまだ年端もいかない童。
彼が礼節を慮り、このような事をやっているわけもなく、全ては陰陽師としての立ち居振舞い、それを演じているだけである。
×××
客人が帰ると、最奥の子供は深い溜め息を吐き、簾を持ち上げながら、狩衣をはだけさせた。
「あ~あつい~~」
まだ幼く大きな瞳に、長い髪を束ね、透き通るような肌と整えられた眉尻が凛々しく、晴明な少年が畳に仰向けになって扇子を扇ぐ。
「これ! まこと! 土御門の嫡子嫡男でありながらなんじゃその体たらくは!」
「だってばあ様~あの中、すっごくあついんだもん」
はっきりとした話し方をする歳五つの子供は、シワの深く、足腰が悪いのか杖をつきながら立ち上がる老婆に反駁する。
「書の最中じゃったな。ほれ戻るんじゃ」
杖の先で寝転ぶ、まことの腹をつつきながら促す。
「勉強ばっかり嫌だ~。外で遊びたい」
「お主は長男! そのような我儘が赦される立場ではない!」
「立場とか長男とか、ばあ様そればっかりだもん。姉様の方が歳上だよ!」
杖の痛みに耐えかね、起き上がり、仰々しい烏帽子を取った。
「家を名を継ぐのは、代々長男と決まっておるじゃろ!」
家督相続に政略結婚。時代錯誤と思われる風習、慣習、これ即ち伝統である。
こんなものを守れと五つの子に説くのだから、いかにこの土御門が世俗を嫌い、華族としての誇りを誇示している事が分かる。
「ぶ~ぶ~」
「婆に向こうて、なんじゃその態度は!!」
杖を振り上げた瞬間、まことは老婆の杖の柄を拳底で押さえ、小さな体で老婆の攻撃を防いだ。
「分かりましたぁ~。センセー待ってるから、戻る」
小さな狩衣の袖と袴を畳に擦りながら、とてとて広間を出ていった。
取り残された老婆は強く畳に杖を立て、歯噛みしながら、誰に問う訳でもなく呟く。
「あな忌々しい……」
×××
まだ日は高く、書道の授業を終えた、まことは畳に仰向けに寝そべった。
「おにぃさま……」
まだ幼く少し舌足らずな話し方の少女が、まことの顔を覗き混む。
長い緑髪は絹のように細く、目鼻立ちがはっきりとし、肌は雪のように白く儚い美少女。彼女はまことの一つ下の妹あやめ。
桜色の着物姿に、軽くブランケットを肩に羽織る姿から解るように、彼女は生まれもっての心臓の疾病があり、普段は日の光すら浴びない。
「あれ? あやめ、起きて大丈夫なの?」
「はい。今日はよく晴れた日なので、できるだけ陽を浴びようと……」
よく見るとあやめは、大事そうに一冊の単行本を抱え、もじもじしていた。
「よし、今日は何かな?」
まことがそう聞くと、あやめはパッと明るい笑顔を見せ、寝転んでいたまことに寄り、おずおずと単行本を畳に添えた。
「おにぃさまがお疲れでなければ……僭越ですが、こちらを読み聞かせてください」
「うん! いいよ!」
まことはヒョイッと起き上がり、あやめの差し出した本を開いた。
×××
しばらくあやめに本を読み聞かせていると、遠い玄関からよく響く溌剌とした声音で「ただいまぁ~」っと聞こえてき、あやめとまことは同時に玄関の方角を向いた。
「あやかちゃんが幼稚園から帰ってきたようです」
「じゃあ、今日はここまでにしよっか?」
「はい……」
あやめの懐から栞を出され、それをまことが挟む。
ドタドタと喧しく廊下を走る音が、部屋へと近づき勢いよく部屋の襖が開かれた。
「ただいまぁ!」
活発で溌剌とした元気な女の子。
姉のあやめとは対照的な三女のあやかが、毎日通園している幼稚園から帰ってき、真っ先に兄のまことに飛び付いた。
「おにぃちゃん! ただいまぁ!!」
「おぉっ、おかえり! あやか」
「あれぇ? “いつか”おねえちゃんは?」
開け放たれた襖にもたれ、大きな欠伸をする女の子が気配もなく現れた。
「もぉ、あやかうるさい……」
気だるげに明るい茶髪を掻きながら部屋に入り、突然あやめの膝に倒れた。
「あやめちゃ~ん……」
「おねぇさま、はしたないですよ」
「あやめちゃん固い~もっと砕けていこうよ~まこちゃんみたいにぃ~」
まこちゃんこと、まことは姉の一つ歳上の姉、いつかに対し苦笑した。
明るく元気な三女、おしとやかで清廉な次女、怠惰で奔放な長女に囲まれ嬉しそうな長男。
開け放たれた襖から遠慮がちに覗く少女もまた、まことを兄と慕っている。
「ん? さや? どうして入って来ないの?」
此方を覗く少女──風間 さやの姿を認めたまことが、不思議そうに問うと、慌てた様子で部屋を去ろうとするさやを、あやかが捕まえた。
「さやちゃんも遊ぼ!」
「わ、わたしは……」
遠慮しながらも、あやかに捕まり、観念した様子で部屋に入ったさやを、まことの前に座らせる。
「あやか、ダメだよ。さやは鍛練があるんだから」
「えーっ! さやちゃんも遊ぶの! いいでしょ、さやちゃん!!」
「えっと、わたしは……」
あやかの我が儘に、さやは困った顔で、まこととあやめを見るが、二人は「仕方ない」っといった様子で、さやは不承不承。
首を縦に振った。
「やったぁ! あたし着替えてくる~!」
あやかはドタドタと慌ただしく去っていった。
「ごめんね。さや、おばさんには、ぼくから謝っておくから」
「あにさま……」
申し訳なさそうに頭を下げる、さやが呟いた「あにさま」とは、血の繋がらない兄と思い、慕う、まことへの敬称である。
本来なら次期当主、嫡子嫡男に対して、身分の低い風間 さやがその様な呼び名で、まことを呼ぶことはご法度だが、他ならぬ次期当主、自身が呼ばせているとあって皆、咎めはしなかった。
「……申し訳ありません」
「さやはいっつも謝ってばかりだね。もっとあやか、みたいに溌剌としないと!」
「はい……」
再び廊下を走る騒音が近付き、着替えたあやかが、部屋に飛び込んできた。
「じゃあ今日は“かくれんぼ”しよ!!」
四人の少女と、一人の少年、それがこの家の日常風景。まことを兄と慕い、良き弟と愛でる姉がいる。
陰陽師とならん少年には、憂いなど無く、満ち足りた時を謳歌し、それが永久に続くと信じていた。