過去、失われた未来
彼女の家族にコンタクトを取ってみようと考えたのは、茉奈の死から3年程経過したころだった。
大学は卒業したけど、ぼくは就職をせず、幾つかの資格を取るという名目で実家に戻った。もちろんそれは言い訳にすぎず、本当は社会にでて他人と接触することが怖かったからだ。
茉奈の死以降、ぼくは何度か本気で自殺を考えたが、どうしても実行に移すことはできなかった。身体的には健康そのもで、日常生活は何不自由なく過ごせる。誰とでも会話できたし、満員電車の中で他人と接触しても何も起こらない。彼女の姿も見なければ声も聞こえないし、気配すら感じることはなかった。急激に減った体重も、時間が経つにつれ元に戻っていった。笑うことは極端に減ったけれど、それでもテレビのお笑い番組を見て笑っていることがあった。沙織や茉奈の記憶が薄れていくにつれて、ぼくの世界、ぼくの日常は、元の姿を取り戻しつつあった。
地元のショッピングモールで、偶然高校時代の知人にあった。大学を卒業したあと、地元で学習塾を経営しているという。昔話をしているうちに、友人の口から彼女の名が出た。知人は彼女の行く末を知らず、今も変わりなく、どこかで元気に生きていると信じていた。
驚いて尋ねると、彼女の妹が大学受験の為、友人の経営する学習塾に通っているということだった。名前までは憶えていなかったが、確かに彼女には6歳下の妹がいた。
彼女の家族は借金苦で自宅を手放し、夜逃げ同然で逃げ出したはずだ。それは彼女の口からも直接聞いていたし、その後の彼女の境遇からして間違いないと信じていた。それにも関わらず、彼女の妹はかつて手放した自宅からさほど遠くないぼくの街に住み、大学受験の為に学習塾に通っているという。ではなぜ、彼女はあれほどまでに変わってしまったのだろう。
ぼくは知人に、塾の講師として雇ってもらえないかと相談してみた。ぼくの学歴を知っている知人は、二つ返事で了承してくれた。さっそく塾の雰囲気を見学してみたいと話し、彼女の近況も知りたいからという理由で、彼女の妹が受講するクラスの日程を教えて貰った。
もちろん、本気で塾の講師をするつもりはない。ぼくはただ、彼女の埋葬先が知りたかった。かつての友人だと話せば、墓の在処くらいは教えて貰えるだろうと考えた。
週末、ぼくは知人の経営する学習塾で彼女の妹に紹介された。
その少女には彼女の面影など欠片も無かった。本当に姉妹なのかと疑いたくなるほど彼女とその少女の容貌は乖離していた。
その少女は、ぼくの出身大学の名前を聞いて驚き、ぼくの容姿を見て顔を赤らめた。だが雰囲気が良かったのはそこまでだった。知人が、彼はお姉さんの元カレなんだよと告げた途端、少女の顔つきが変わった。少女の顔から表情と呼べるものがはげ落ち、感情の色をなくした冷たい目は二度とぼくを見ようとはしなかった。今日はもう帰りますと消え入りそうな声でそう告げると、少女は逃げるように教室から出て行った。
ぼくは少女を追いかけ、塾のエントランス前で少女に追いついた。そこで初めて、ぼくは今日ここに来た理由を少女に話してきかせた。高校時代、唐突に彼女と連絡がとれなくなって逢えなくなったことを話し、彼女の死の直前に再会したことも話して聞かせた。警戒心をあらわにした少女に向かって、ぼくは純粋に、ただ単純に彼女の墓を訪ね弔いたいのだと根気よく語りかけた。
ただ、再開した彼女の変貌ぶりや、彼女の死後にぼくの身に起きたことに関しては喋らなかった。十七歳の少女に聞かせるには、あまりに悍ましく、残酷な話だと思ったからだ。
少女の硬い表情が徐々に和らぎ、やがてその瞳に涙が浮かんだ。少女は躊躇いながらも、お父さんには内緒にして下さいと前置きしてから、ぼくの知らない事実を語りだした。
少女と彼女は、異父姉妹だった。
托卵だったのだと、少女は言った。托卵とは鳥類や昆虫類に見られる習性のひとつで、自分の産んだ卵を他の個体に育てさせることを言う。だがこの言葉は、本来は異なる意味でネットスラングとして成立していた。他人の子供を、自分の子と偽り育てさせることを、動物の習性になぞらえて托卵と呼ぶらしい。
つまり彼女の母親は、浮気相手との間にできた子供を、夫に対して自分たちの子供だと嘘をついて育てて来たということだ。嘘がばれることがなければ、彼女とその家族は今でも平穏に生活していたのかもしれない。だが嘘は、最悪の状況で露見した。
少女の父親、つまり彼女の養父は、この地域の資産家だった。彼女の母親は中学時代の同級生で、彼にとって初恋の相手だったという。
二十代半ばで再会した二人は急速に仲を深め、一年後には入籍し、それから半年ほどで長女を授かった。その娘が彼女だ。六年程して、次女である少女が生まれた。
父親の実家に近いこの町での暮らしを快く思わなかった母親は、ぼくが訪ねた近隣の都市の一等地にマンションを買い、そこに移り住んだ。優秀な事業主でもあった父親は、自分の実家と折り合いの悪い妻に配慮して、妻の望みを無条件で叶えていた。
少女が中学に上がる頃、父親名義の督促状がマンションに届いた。聞いたこともない金融会社からの督促状で、何かの間違いだろうと様子を見ていると、その日を境に膨大な量の督促状が届くようになった。調べてみると、父親名義で母が金を借りていることが判明した。
大手の金融会社から街金と呼ばれる高利貸まで、債務者はそれこそ山のよう現れ、昼夜を問わず取り立てを開始した。数千万にも及ぶ借金ではあったが、いくつもの事業を経営している父親が本気で債務処理をすれば、十分に返せる金額だった。だが父親は、妻である母親を切り捨て、逆に損害賠償を求めた。
借金の大半は、母親による怪しげな事業への投資、そして複数いたという愛人との遊興費として浪費されていた。金の使途を問い質され逆上し、意識不明になるまで泥酔した母親を病院に連れ込んだ結果、数回に及ぶ堕胎手術の跡を医師から指摘された父親は、娘二人のDNA鑑定を強引に実施した。
その結果、少女は実子と判明したが、父親と彼女との間に血縁関係は認められなかった。母親が作り出した債務は父親がすべて清算したが、父親は離婚を選択し、かつて母だった女を相手に民事裁判を起こした。父親は実子である少女の親権のみを主張し、彼女に対しては成人するまでの養育費の支払い以外の一切の援助を行わなかった。
離婚成立後しばらくして、母親は違法薬物を摂取したとして逮捕勾留された。実刑判決こそ受けなかったものの、親子二人の生活は困窮した。ただ一人頼れるはずの養父は、娘として溺愛していた反動からなのか、彼女の存在を忌み嫌った。年齢こそ離れていたが、仲の良かった少女と彼女だったが、父親は二人の接触を一切禁止し、それ以降少女は姉の姿を見ていないとのことだった。
ぼくは、終夜営業のファミレスのテーブルで向かい合い、長い時間をかけて少女から話を聞いた。最初のうち、少女の話は散漫で、時系列も曖昧だった。だが、根気よく聴き、尋ねていくうちに、ひとつの形ある話として捉えられるようになった。
それはひとつの家族が消えて無くなる話だった。幸せな四人家族が、ある日を境に見るも無残なほど壊れていく話だった。悪いのは母親なのだろうが、少女の父親、彼女にとっての養父もまた残忍だった。いくら騙されていたとはいえ、17年もの間、実の娘として育てた彼女を、こうもあっさりと見捨てられるものだろうか?彼女の母親が、もう親としても人間としても終わっているのを知りながら、彼女の親権だけを手放し、僅かばかりの養育費だけを手渡して切り捨てるという行為に、復讐以外のどんな意味があったのだろう。
ぼくの指摘に、少女はうなだれながらこう答えた。
「父は、たぶんまだ母の事が好きなんです。だからこそ母を許せないんです」
冗談じゃなかった。いい年をした大人の男が、そんな子供じみた嫉妬心から一人の少女の未来を奪ったのだ。母親が屑だというのなら、養父は人でなしだ。
少女がぼくに語ってくれたのは、事の顛末でしかない。あの時、彼女の身に起きたことを、端的に並べただけの話に過ぎない。
母親に裏切られ、父親だと思っていた人間に見捨てられ、それでも家族を裏切った母親の為に生きていくしか道が無かった彼女の苦しみなど、少女の話の中には欠片も出てこない。母の過ちと、養父から突きつけられた憎しみのせいで、進学を諦め、高校を中退し、恩師を友人を、妹までも失わなければならなかった彼女の苦悩。破綻していったであろう母との生活の中で、自らの身体すら売らなければならなかった彼女の絶望を知る者は一人として存在しなかった。
どうしてぼくに相談してくれなかったのだろうと思う。それが不可能であることは痛いほどわかっている。そんな簡単な話ではなかったろうし、信じていた人達に裏切られ、蹴落とされていく姿を他人であるぼくなどに見せたくなかったのも理解できる。
だけどそれでも、ぼくに相談してほしかった。あなたはいいわよねでもいいし、あなたには分からないでもいい。なんでもいいから、ぼくを巻き込んでほしかった。何もできないぼくを罵倒し、傷つけ、憎んでほしかった。そんなことで少しでも彼女の気が晴れるなら、それだけで構わない。落ちていくのなら、ぼくも一緒に落ちていく。身も心も傷だらけになるのなら、ぼくも同じ傷を負う。
再会したあの夜、彼女がぼくに言った通り、ぼくはいつまでも、どこまでも、何があっても彼女を探し求めるべきだった。だが同時に、ぼくを巻き込まないように距離を取ったことは、彼女の犯した最大の間違いだった。
仮定の話に意味はない。だけどぼくは想像してしまう。もし何事もなく、ぼくらのささやかな交際があのまま進んだなら、ぼくらはどんな未来を見つけたのだろう。十七才の恋が永遠の恋になることは稀だ。熱く激しい恋心は、時間の経過と共に変質し、やがて嵐が通り過ぎたように勢力を失っていく。全てが輝いていたはずなのに、ある日突然、そこにいるのは何の変哲もない普通の男と女で、永遠に二人を結び付けていると信じていた赤い糸は、縺れ絡まり、実は互いが全く知らない別の相手と結びついていることに気づく。それが恋だ。そしてそれは恐らく間違ってはいない。十七才の恋には現実味が無い。衣食住は保証され、気にしなければならないことは漠然とした将来と目の前にいる異性のことだけだ。それは絵本の中の物語のように短く簡潔で美しい。だからこそ、絵本の中の話はすぐに終わりを告げる。
ぼくと彼女の恋も、あるいはそういう未来を迎えたのかもしれない。戯れるようにじゃれ合うように僅かな時を重ね、水疱のように溶けて消えて行ったのかもしれない。そうなっていたなら、どんなに幸せだったろう。
ぼくらは永遠に結びついてしまった。歪ではあるが、ぼくと彼女の愛は成就し結実していた。ぼくらは死ぬまで、もしその先があるのなら、その先まで、どこまでもいつまでも一緒だ。
ぼくはもう一度彼女に会わなければならなかった。自分を救う為ではなく、この先ぼくが殺してしまうかもしれない誰かの為でもない。
彼女を救うつもりもない。彼女がぼくを呪うなら、ぼくはその呪いと共に生きる。なぜならその呪いこそが、彼女の愛の証だからだ。
深夜を過ぎたファミレスで、ぼくは少女に礼を述べた。帰宅を促す着信が何度も入っていたのに、少女は数時間に渡って、口にしたくないはずの家族の秘密を語ってくれた。
別れ際、少女はぼくに自分の母親の電話番号を教えてくれた。過去に一度だけ、少女のスマホに母親から連絡が入ったらしい。母親は口籠りながら、少女の現状を尋ね、体調を気遣い、最後に金を貸してくれないかと切り出してきたという。
「あの人なら、姉のお墓の場所を知っているはずです」
実の母親を、少女はあの人と呼んだ。ぼくはスマホに電話番号を記録すると、少女に改めて礼を述べた。
「姉のお墓に、何を伝えるつもりですか?」
少女の問いかけは、幼稚で感傷的だったが、それでもぼくは本心から答えた。
「一緒にいると、そう伝えます。いつまでもずっと一緒だと」
この先、地獄まで一緒なのだとは言えなかった。
「姉がうらやましいです」
そう言うと少女は、夜明け前の道を、自転車を漕いで走り去っていった。その後姿を見送りながら、ぼくはこれからやらなければならないこと、そしてその結果起こることを想像して震えていた。ぼくはどうしても、彼女に会わなければならなかった。