異世界転生したと思ったら……
早崎奈津子、享年九十八歳。肺炎で多少苦しい思いはしたものの、子供や孫やひ孫に囲まれて、まずまず幸せな最期だった。
この世に思い残すこともなし。さて、孫と年の変わらない女と浮気した挙句、あっさり事故で死んだ夫の尻でもあの世で蹴飛ばすか。――なんて、少々不穏なことを考えつつ、自分の体が焼かれて骨になるのを見守り。慣例通り四十九日の法要で幽霊を辞めた。
あまり深く物事を考えない、実に彼女らしい最期だった。
次に意識が浮上した時、奈津子は温かい場所にいた。ちょうど、熱めの湯船に浸かっているくらいの温かさだ。体の自由はきかなかったが、あの世が想像していたよりぬるいことにちょっと幸せを感じていた。
――が、その幸せな空間は、直後に崩れ去った。
いきなり蠢きだした空間に押し出されるように、狭い場所に押し出される。頭が圧迫されて、脳みそがつぶれるんじゃないかってくらいぎゅうぎゅう押しつぶされて、奈津子は叫んだ。
「痛い痛い痛い!ちょ、なんなのよこれぇ……私はトコロテンじゃないっての!」
と、言ったつもりの言葉はすべて、赤ん坊の泣き声に変換された。何ごとかと驚く奈津子の体は宙に浮いており、よく見えない目ではわからないが、複数の人が彼女を覗き込んでいる気配がある。
「〇§γ¨Д△★」
「◆%Д##・<‘◎」
なにやらわからんが、とりあえず彼らはなにか喋っている。自分の耳がおかしくなったのか、それとも知らない言語なのか。もっとも、問いただしたくとも奈津子は喋れない。喋ったつもりでも全部泣き声に変換されるのだ。
なんてこった、奈津子は正しく「ここはどこ?私は誰?」状態だ。
(しょうがない。なるようになるか。)
奈津子はすべてを諦めて――有り体に言えば、さじを投げた。
####
いわゆる異世界転生ってやつを経験した奈津子は、新しい名前をナタリーといい、街道沿いの村に一軒だけある宿屋の娘だった。
よくある茶色い髪に、茶色い瞳。目の覚めるような美人ではないが、愛嬌のある顔立ちの少女。本当に同じDNAで構成されているのかと疑いたくなるような美しい兄一号と、そこらのゴロツキと変わらない野蛮な兄二号を見て育ったわりにはまっとうだと評判だ。
体の弱い兄一号に代わり、働き者の両親を助けて宿屋で働く孝行娘。
前世を合わせて一世紀を軽く超える人生経験を持つナタリーには、長兄も次兄も、なんなら両親すらも子供と一緒。浮気は男の甲斐性だと好き勝手してくれた夫を操縦することに比べたら、彼らの手伝いなど片手間仕事だ。
少しばかり時代が古いせいで多少の暮らしにくさはあるが、それも夫の借金で爪に火を灯すような節約生活をしていた頃を思えば楽なもの。
(人生イージーモードもいいところだわ)
あとは適当な男を捕まえて婿入りさせ、子供の二、三人でも産んで育てればいいだろう。もっとも、この世界の結婚適齢期は二十歳前後。現在十三歳のナタリーには、相手を見つくろう時間が十分にある。
昼時を過ぎた宿屋の食堂であくびを噛み殺しながら、ナタリーはめぼしい男を思い浮かべた。
木こりのアドは婿にするには年上すぎる。年が近いのは村長の息子のジルだが、彼は隣の村のお嬢さんに夢中だ。
「またなにか面白いことでも考えてるの?」
穏やかに笑う兄一号ことハルジオンは、体力と引き換えにしたように頭がよくて、ロクに教育施設もない田舎の村で数少ない読み書きができる人だ。ハルジオンに習ったおかげで、ナタリーもある程度の読み書きならできる。計算は昔から得意な方だったから、今や宿屋の会計はナタリーが握っていると言っても過言じゃない。
「んー……誰なら婿入りしてくれるかなぁって」
ハル兄さんは誰がいいと思う?と問いかけると、ハルジオンは少し困ったように眉を下げた。
「ナタリーには、まだ少し早いんじゃないかな……」
「そうなんだけど、この村めぼしい男がいないでしょ?両親が健康なうちに一回村を出て、婿入りしてくれそうな人を探してきた方がいいと思うんだよね」
「それは……」
この話題になると、ハルジオンは途端に申し訳なさそうになる。それはそうだろう。本当なら、今頃このことで頭を悩ませているのは、今年二十歳になるハルジオンのはずなのだから。次兄のオクタヴィアンは十六歳。結婚の話が出るには少し早い。
ところが、この次兄は子供の頃に酷いけがで睾丸を片方切除してしまっている。普通より子供ができにくいだろうことは想像に難くない。
そこで、ナタリーは奮起した。体の弱い、もしくは生殖機能に問題のある兄たちに代わって、自分が後継ぎを産むのだと齢十歳にして決めてしまったのだ。
「…………言っても聞かないんだろうね、ナタリーは」
困ったような表情のまま、ハルジオンは確認していた帳簿を閉じた。
ここのところ野菜の価格が上がっているので、少し予算を見直さなければいけないのだ。ナタリーだけでは不安だから、ハルジオンに協力してもらっていた。ちなみにオクタヴィアンは頭脳労働では役に立たないので、裏で薪割り中である。
「まあ、半年くらいで帰ってくるつもりだから、行くってなったら協力して?」
ハル兄さんだけが頼りなの……なんて目を潤ませてみれば、ちょろい兄は渋々ながらもうなずいた。
この時のナタリーは、思い描いていたものとは全く違う形で旅立つことになろうとは思ってもいなかった。
####
「見つけた、宿屋の娘!」
と、叫びながら黒髪の女が店に飛び込んできたのは、秋も深まろうかという頃だった。両親は驚きに固まり、腕を掴まれたナタリーをふたりの兄がかばう。
「テメェ、どこのどいつだ」
獣が唸るような低い声で問うオクタヴィアン。女にナタリーを奪われてなるものかと、ハルジオンは妹を抱き寄せる。爪が食い込んで痛む左腕に顔をしかめるナタリーを解放したのは、女を背後から殴り倒した騎士様だった。
「なにをしとるか!」
中身入りの鞘で女の後頭部を殴った騎士様は、女に取ったぞんざいな態度を即座に改め、そりゃあもう見事な愛想笑いでナタリー一家に頭を下げた。
「失礼いたしました。私は近衛騎士団所属のルレクと申します。この度、世界の危機を救うために勇者の仲間となってくださる方々を探しておりまして。ナタリー嬢が候補となり得るお方だと神託があったため、こうしてお迎えに上がった次第です」
「……………………すいません、耳が遠くなったみたいでちょっと理解できなかったんですが。もう一回お願いします。誰が、なんですって?」
「ナタリー嬢が、勇者の仲間の候補となりました。と、お伝えいたしました」
にっこり。
有無を言わさぬルレクの様子に、ナタリーの頬が引き攣る。そっと視線を向けると、ハルジオンも両親も闖入者たちの動向を子細漏らすまいと神経を張り詰めている。少々どころでなく危機管理能力に欠けるオクタヴィアンですら、警戒を解いてはいなかった。
ルレクを押しのけて、女がナタリーに近付――けなかった。旅装だろうマントのフードを、ルレクががっちり押さえていたのだ。妙に扱いに手慣れている。
「えー……ちなみに、非常に不本意ですが、これが勇者様です」
(勇者?)
「はーなーしーてー。ルレク、酷い!」
「……ええと、妙齢の女性に見えますが?」
「ええ、女性です。正真正銘、婚期を逃した可哀想な女です。ただし、異世界の方ですが」
ルレクが身もふたもない言い方で勇者サマを紹介する。不意に、彼女は顔を上げて真正面からナタリーを見た。
長い黒髪を首の後ろでひとつに括り、肌色はこの国の人間にしては少々黄色っぽい。瞳も黒。細身でスレンダーだが、顔が丸く、パーツ全体が中央に寄り気味。気合を入れるためにむっと突き出した唇は少々薄いが、それもまた彼女の個性というものだろう。
少々どころでなく見覚えのある顔に、ナタリーはハルジオンの腕から身を乗り出した。
「花澄?」
「ナタリー嬢、勇者様とお知り合いで?」
勇者、花澄がぶんぶんと首を横に振る。ハルジオンを突き飛ばす勢いで兄の腕から抜け出し、ナタリーは花澄の頬を両手で思い切り挟んだ。
「あんた、行方不明になったと思ったらこんなとこにいたの!?」
「いや、誰だよ!?」
「「「「一体どういう関係!?」」」」
花澄の悲鳴と、両親とハルジオン、そしてルレクの声が重なった。あほの子オクタヴィアンはどうしていいかわからない様子でナタリーと花澄を交互に見ていた。
「私、奈津子!早崎……じゃないや、太田奈津子。覚えてるでしょ?」
奈津子が結婚したのは、花澄が消えた数年後だ。当時は旦那と知り合ってもいなかった。当然、結婚後の姓を名乗ってもわからない。小首をかしげた花澄に慌ててそれこそ半世紀単位で使っていなかった旧姓をほじくり返し、ナタリーは花澄に詰め寄る。
「な、つこ……なっちゃん?ほんとに?」
「こんな嘘、どうやったら吐けるっていうの?正真正銘なっちゃんですよー」
花澄の手が、ナタリーの頬を恐る恐る撫でる。
何度も輪郭をたどるように上下する手に頬ずりして、ナタリーは飼い主に撫でられる猫のような表情で目を閉じる。
つるんでいた頃ふたりが何度となく繰り返した行動に、花澄が目に涙を溜める。
「ほんとに、なっちゃんだぁ……」
なんだかよくわからないが、とりあえずふたりは知り合いで、久々の再会をしたらしい。そう納得した周囲の期待を裏切って、花澄はいきなりぶにーんとナタリーの頬を思い切り引き伸ばした。
「随分とまあ、ちんちくりんになっちゃって」
「あ?」
確かに、奈津子は花澄より背が高かったし、横幅も広かった。当時を考えれば、十三歳のナタリーはまだまだ成長途上で花澄を見上げる形になる。
「そっちこそ、ちょっとの間に随分老けたんじゃない?」
「はあ?二年も経ったら年取るに決まってるでしょ!あたしもう二十六よ?」
「それを言うなら私はまだ十三歳だからこれから伸びしろがあるってことでしょ」
ふふん、とナタリーが鼻を鳴らすと花澄は「ふざけんな」とわめいている。「事実でしょ」とふんぞり返ると、花澄はますます悔しそうに地団太を踏む。
「ま、なんとでも言いなさいな。どうせ、アンタはあたしと旅に出るんだから、これからじっくりオトナの魅力ってやつを教えてあげるわ!」
「オトナの魅力ねぇ……ま、やってみればー?」
開き直った花澄が長い髪を払いながら高笑いする。
もうすっかり付いていけない周囲は、ふたりを放置してお茶を飲んでいた。
それから数ケ月。なんやかんやあって、ナタリーは花澄と共に旅立つことを決めた。
さらにそこからなんやかんやあって花澄が隣国の王太子に見初められてパーティー全員で騎士団と追いかけっこをしたり、二人そろって魔王にペットになれと言われて倒したり、適齢期ちょっと前まで育ったナタリーが、ルレクという――実は近衛騎士団の副団長だったという衝撃の事実が発覚した――将来有望な男を種馬扱いして大きなお腹で逃げ出して捕まったりするのだが……それらはまだまだ先の物語である。
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