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黒髪の少女

 翌日は平日だったので、ビアトリスはいつものように登校した。

 先月ビアトリスは最終学年へと進級したものの、幸いマーガレットたちと同クラスになることができた。ゆえに普段なら大好きな友人たちと過ごす楽しい学院生活なのだが、今朝は正直言って気が重かった。オランド侯爵についてどう対処すべきか心を決めかねていたからである。


 シャーロットの婚約者ヘンリー・オランドはオランド侯爵家当主、すなわち七人の「閣下」の一人である。

 とは言えヘンリーは穏やかで紳士的な好人物であり、ビアトリスたちに嫌がらせをする理由もなければ、金に困っている様子もない。そしてもちろん宝石に執着しているそぶりなど、一度も見せた試しがない。ゆえに心情的には無条件で犯人候補から外したいところなのだが、状況が状況だけに、そうもいっていられない。

 ビアトリス自身が彼に会ったのは片手で数えられる程度だし、外面を取り繕うのが上手い人間というのは、世間にいくらでもいるものだ。


(だから一応オランドさまも候補に入れようって、昨日カインさまと話し合ったのよね……)


 しかし候補に入れたとして、そこからどうしたらいいのだろう。

 ヘンリー・オランドについて調べるとなれば、婚約者であるシャーロットから探りを入れるのが定石だ。しかしシャーロットに真意を隠したままヘンリーについて探るのは、大切な友人に対してあまりに不誠実な態度に思われた。

 友人に誠実であろうとすれば、シャーロットに事情を打ち明けたうえで、協力を仰ぐべきである。しかしビアトリスから「オランドさまを疑ってるから協力して欲しいの」と言われたら、果たしてシャーロットはどんな感情をいだくだろう。

 ――などと散々思い悩んでいたわけだが、実にありがたいことに、事態は勝手に解決を見た。




「ねえ二人とも聞いて、お父さまったら酷いのよ!」


 教室に入ってくるなり、シャーロットは怒りに満ちた口調で言った。


「まあ、一体どうしたの?」

「一昨日のパーティのあと、ヘンリーさまに家まで送って頂いたんだけど、出迎えたお父さまがいい葡萄酒があるから一緒に飲もうってヘンリーさまを誘ったの」

「あら舅と婿の語らいね、素敵じゃないの。それの一体どこが酷いの?」


 マーガレットが怪訝そうに聞き返す。


「お父さまは凄い酒豪なの。それなのに自分のペースでどんどん飲んで、ヘンリーさまにも同じペースで勧めるもんだから、ヘンリーさまは酔いつぶれて大変なことになっちゃって。ほら、あの方は人がいいから断れなかったみたいなの。翌日は一緒に展覧会に行くはずだったのに、ヘンリーさまは二日酔いで起き上がれないし、最悪よ」

「まあ、そうだったの。それは災難だったわねぇ」

「そうなのよ。お父さまはあとでお母さまにこってり絞られていたみたいだけど……あら、ビアトリス、涙ぐんだりしてどうしたの」

「なんでもないわ……。神さまっているんだなって、ちょっと感動しただけよ」

「なぁにそれ。貴方何だか変よ。一体どうしたのよ、ビアトリス」

「ううん、本当になんでもないのよ」


 ビアトリスは指先で涙をぬぐいながら、創造神とシャーロットのはた迷惑な父親に心からの感謝をささげた。




 ちなみにあの舞踏会の晩は、フェラーズ家でもちょっとした波乱があったらしい。なんでもマーガレットの兄チャールズが、ついに運命の女性に出会ったというのである。


「あの晩、お兄さまは甘いものを食べにカフェに寄ったでしょう? そこで隣のテーブルにいたご令嬢と意気投合したらしいわ。なんでもチーズタルトを―ホール分平らげる姿に運命を感じたんですってよ」

「それは豪快な話ねぇ。そのご令嬢はあんな夜中に一人でカフェにいらしたの?」

「いえ、まさか。付き添いのお父さまとご一緒よ。それでお兄さまの方から声をかけて、甘いものの話や、競馬やポロの話で盛り上がったのだけど、結局名前も聞かずにそのまま別れてしまったらしいわ。お兄さまいわく、『改めて名前を聞くのが何となく照れ臭かった』んだそうよ。まったく情けない話よね!」

「まあ、それじゃどこの誰かも分からないの?」

「ええ、そうなの。分かっているのはお兄さまより二つか三つ年下で、綺麗な黒髪で、すごく可愛いってことだけよ。あとそのカフェには初めて来たそうだから、王都住まいじゃないのかも知れないって言ってたわ。私もその説には同感よ。あそこは甘いもの好きなら誰でも一度は行ったことのある有名なカフェだもの。チーズタルトをワンホール平らげるようなご令嬢が今まで行ったことがないなんてあり得ないわ」

「マーガレットが言うと信ぴょう性があるわね。それじゃタウンハウスを持たない家の方なのかしら」

「もしかしたら外国からの旅行者かもしれないわよ」

「だとしたら、一刻も早く見つけ出さないとまずいわね」


 その後、三人はチャールズの運命の相手は一体誰なのかについて、あれこれ議論を交わしたが、教師が来たのでそこで話は打ち切りになった。




 午前の授業が終わり、ビアトリスは友人たちと連れだって食堂へと赴いた。

 今日の授業はやけに難しかったとか、昼食で新メニューの鹿肉のパイを試してみるつもりだとか、他愛もないことを語り合いながら中庭の横を通りかかったとき、マーガレットが驚いたような声を上げた。


「まあ、あの子ったらずぶ濡れじゃないの」


 見ればひとりの女生徒が、髪から水を滴らせながら中庭の中央に立ちすくんでいる。


「きっと噴水にやられたのね。いい加減に学院もなんとかすればいいのに」


 シャーロットが眉を顰める。

 中庭にある噴水は、午前は実につつましい水量なのだが、正午ぴったりになるとまるで何かの合図のように、勢いよく水が噴き出す仕掛けになっている。一応入学式で説明されてはいるものの、うっかり忘れた生徒が被害を受ける例があとを絶たない。


「私、ちょっと行ってくるわね」


 ビアトリスはハンカチをもって女生徒に駆け寄った。

 近くで見ると、なかなか可愛らしい顔立ちの女生徒である。黒髪に灰色の目。リボンの色からして一つ下の下級生のようだ。


「どうぞ。これをお使いになって」


 ビアトリスがハンカチを差し出すと、少女は恐縮したように受け取った。


「あ、ありがとうございます」


 そして髪を拭こうとして――何故かそのまま固まってしまった。


「貴方が、ビアトリス・ウォルトン……?」


 小声でつぶやく声がする。おそらくハンカチに入っている名前を読んだのだろう。


「ええそうよ、貴方は?」

「……フェリシア・エヴァンズです。あの、これ、洗ってお返しします」

「いえ、わざわざ返しに来ていただくのも申し訳ないから、差し上げるわ。気にしないでちょうだい」

「はい、ありがとうございます……」


 少女は固い声で答えると、一礼してその場を立ち去った。ほんの一瞬、彼女の眼差しに敵意が感じられたのは、ビアトリスの思い過ごしだろうか。


(……エヴァンズってことは、たぶんエヴァンズ子爵の妹さんよね)


 エヴァンズ子爵家は数年前に先代が亡くなって、今は二十歳そこそこの息子が当主を務めているはずである。その当主の五つ下の妹が、確かフェリシア・エヴァンズだ。今の少女と名前も年頃も一致しているし、おそらく本人なのだろう。


 とはいえそのフェリシア・エヴァンズがなにゆえ自分に敵意を持つのか、ビアトリスにはさっぱり分からない。「嫌われ者の公爵令嬢」だった頃のビアトリスは、見知らぬ生徒から嘲笑や蔑みを向けられることは日常茶判事だったが、あの頃でさえ、ここまで純粋な敵意をぶつけてきたのはマリア・アドラーくらいだったと記憶している。

 しかもフェリシア・エヴァンズは、良くも悪くも有名人であるビアトリス・ウォルトンの顔を知らなかったように思われる。もしかしたら最近になって編入してきたのかもしれないが、だとしたら、ますますもって敵意の理由が分からない。


(編入前に親戚からビアトリス・ウォルトンの悪い評判でも聞かされていたのかしら)


 怪訝に思いながらその場を立ち去りかけて、ふと足が止まる。

 チャールズよりも二つか三つ年下で、綺麗な黒髪で、すごく可愛い。人気のカフェを知らないなど、王都の事情には詳しくない。

 仮にフェリシア・エヴァンズが最近編入してきたのだとしたら、これらの条件にぴたりと当てはまってはいないだろうか。


(ああでも、彼女はお父さまがいらっしゃらないから違うかしら。チャールズさまの運命のお相手は、お父さまとご一緒だったそうだもの。いくらなんでも二十歳そこそこのエヴァンズ子爵をお父さまに見間違えるはずはないでしょうし……)


ビアトリスが考えこんでいると、マーガレットたちが声をかけて来た。


「どうしたの、ビアトリス。早く食堂に行かないと、新メニューが売り切れてしまうわよ?」

「ごめんなさい、すぐ行くわ」


 ビアトリスは慌てて友人たちのあとを追いかけた。

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