プロローグ
そもそもの発端はカインから贈られた婚約記念の首飾りだった。それは大粒の月華石を連ねた大層見事な逸品で、目にした瞬間、ビアトリスから思わず感嘆の声が漏れた。
「なんて美しい」
目を輝かせるビアトリスに、カインは「気に入ってもらえて良かった」と照れ臭そうに微笑んで、「我が家に古くから伝わる品なんだ」と付け加えた。
月華石はメリウェザー領でしか採れない特別な宝石で、陽光のもとではほとんど無色透明だが、人工照明の下では華やかな菫色へと色変わりする神秘的な性質を持つ。ダイアモンドよりも高価で希少なため、小さな指輪ですら大変な価値を持つと言われているのに、目の前で煌めく月華石の大きさときたらどうだろう。
これほどに豪奢な首飾りはこの世に二つとないのではないか。
「……そんな大切な品を私が頂いてよろしいのでしょうか。メリウェザー家にとっても家宝のようなものでしょう? 私はカインさまの婚約者ですけど、まだ嫁いでもいるわけでもありませんのに」
「当主である俺が君に贈ると決めたんだから問題ないよ」
カインはあっさりと言い切った。
彼は先月王立学院を卒業し、祖父の跡を継いで辺境伯の座についた。現在は王都の大学に通っているため、領主の仕事はまだ祖父が大半を担っているが、そちらも少しずつ引き継いでいるところらしい。
「それにこの首飾りは子供のころ、祖母が亡くなる前に『いつか大切な女性ができたら贈りなさい』と言って俺に託してくれたものなんだ。そのときからずっと、君に似合うだろうなと思っていた」
「子供のころ?」
「え、ああ。うん、子供のころ」
カインは己の失言に気づいたように目を泳がせた。
「ふふ、光栄ですわ、カインさま」
ビアトリスがくすくすと笑うと、カインもつられたように苦笑した。
ビアトリスにとってカインとの出会いは王立学院の裏庭だが、カインの方はもっと幼いころにビアトリスを目にしたことがあったらしい。カインいわく「一目ぼれだった」とのことで、以来ずっと心ひそかに思い続けていたという。
もっともビアトリスがそれを知ったのはごく最近のことである。カインとしては「言ったら引かれるかと思って」なかなか打ち明けられなかったらしい。
(カインさまって、ときどきとても可愛らしいのよね)
一度目にしただけの相手を八年もの間想い続けていたというのは、傍から見るといささか常軌を逸しているが、互いの想いが通じ合った今となっては、むしろ嬉しいエピソードである。
「着けていただけますか?」
「ああ、喜んで」
ビアトリスが姿見の前に立つと、カインが後ろに回って首飾りの留め金をはめてくれた。彼の指が首筋に触れるのがくすぐったい。
「思った通りだ。本当に、とてもよく似合う」
鏡越しのカインが目を細めて賞賛する。確かにカインの言う通り、月華石はビアトリスの膚に良く映えて、いつもより二割増しくらい美人になった心地がする。
「今度のスタンワース家の舞踏会に着けていくことにしますわね」
「そうか。メリウェザーの宝石を着けた君をエスコートするのが楽しみだよ」
カインはそう囁くと、後ろからビアトリスを優しく抱きしめて、後頭部に口づけを落とした。
カインは婚約以来、様々な形で熱いほどに愛情を伝えてくれる。かつての婚約者であるアーネストに長年冷遇されていたことで、まだどこか婚約者に愛されること、大切にされることに慣れていないビアトリスを、隅々まで満たそうとしてくれているかのようだ。
幸せだ、と思う。
この幸せの象徴のような首飾りが、まさかあんな厄介ごとを引き起こすとは、そのときのビアトリスはまるで思っても見なかったのである。