ビアトリスの縁談
「ナイジェル・ラングレーさまですか」
名前だけは知っている。ラングレー侯爵家の当主で、年齢は確か三十二歳。婚約者を病で亡くし、その後はずっと独身を続けていたらしい。これといった良い評判も悪い評判も聞かない人物だ。
ただ特筆すべきことがあるとすれば、王妃一派に取引先をつぶされたウォルトン家が、新たな取引相手として選んだ相手が、他でもないラングレー家であることだ。
「ああ。なんでもお前が叔母上に連れまわされて色んな茶会に出席していた頃に、お前を見初めたんだそうだ」
「そうなのですか。お茶会でご紹介を受けた記憶はありませんが」
「彼は茶会に出席していたわけではなく、別の用事で知人のエッシャー家を訪問しているときに、夫人と歓談しているお前を見かけたらしい。そして夫人からお前の話を色々聞いているうちにぜひ伴侶に得たいと考えるようになったんだとか」
エッシャー夫人のお茶会には何度か参加したことがある。そのうち二度は庭園で行われていたし、その際ラングレー氏が窓越しにビアトリスを見かけたとしても、別段不自然な話ではない。
「それで一応お前の意見を聞いておこうかと思ってね。ただあらかじめ言っておくが、彼がウォルトン家と取引関係にあることを、お前が気にする必要はないよ。これは対等な取引であって、別に何らかの恩恵を施されているわけではないからね。受けるも断るも完全にお前次第だ」
「そういうことでしたら、お気持ちはありがたいのですが、お断りしてください。まだ殿下との婚約を解消したばかりで、そんな気持ちにはなれませんので」
「そうだな。それにお前にはあのメリウェザー家の青年がいるしな」
父はしたり顔で頷いた。
「お父様、カインさまと私はそんな関係ではありません」
「今はそんな関係ではなくても、いずれはそうなるのだろう? 私も彼なら賛成だよ。あの晩お前を送ってきたときに一度会ったきりだが、なかなか感じのいい青年だったし、家柄能力ともに申し分ない」
「いえ、あの方と私の間には本当に何もないんです。将来について約束したこともありませんし、あの方には私の他にも親しくしている方がいらっしゃいますし」
「そうなのか……」
父は虚を突かれたような表情を浮かべた。
「そうか……。てっきり若い娘らしくはにかんでいるのかと思っていたが、本当にそんな仲ではなかったんだな」
「はい」
「……それで、ラングレー侯爵との縁談は本当に断ってしまっていいんだな? 年は少し離れているが、家柄的には釣り合うし、なかなか立派な風采の人物だ。一度会うだけでも会ってみても悪くないとは思うがな」
「いいえ。私自身にその気がないのにお会いするのは、ラングレーさまに失礼ですから」
「そうか、分かったよ。それでは先方に断りの連絡を入れておこう」
「はい。お父さま、お手数おかけします」
「なに、美人の娘を持った父親の仕事だよ、これは」
冗談めかして言う父に、ビアトリスもつられて微笑んだ。
そんな風にして、この縁談話は始まる前に消滅し、ラングレー氏はビアトリスの人生にほとんど痕跡をとどめることなく退場した。はずだった。
まさかナイジェル・ラングレーという名が自分にとって忘れえぬほどにおぞましいものになるなんて、そのときのビアトリスはまるで想像もしていなかったのである。