フィールズ邸の謎めいた女性
そして待ちに待った演奏会がやってきた。
フィールズ夫人は薔薇色の頬をした愛らしい女性で、姉妹の母親というよりは、姉に見えるほどに若々しかった。なんでも学院を卒業と同時にフィールズ伯爵と結婚し、翌年エルマたちが生まれたらしい。
「この前の試験で娘たちが好成績をとれたのはビアトリスさまのおかげだとうかがって、主人ともども大変感謝しておりますのよ」
大仰に礼を述べる夫人に、ビアトリスは「いえ、お二人が努力されたからです」と慌てて否定した。
屋敷にはビアトリスたちのほかにも、フィールズ家の知り合いが何人も招かれており、メインの演奏が始まるまでの間、皆サロンで軽食をつまみながらお喋りを楽しんでいる。ビアトリスたちも夫人の紹介を受けて、会話の輪の中に加わった。
演奏会の前とあって、話題はやはり音楽にまつわるものが多かった。ビアトリスの名を耳にしても、王太子との一件に触れる者は一人もおらず、ビアトリスは内心安堵の息をついた。
そうして歓談しているときに、ビアトリスはふと集団から離れたところにひっそりとたたずむ地味な婦人に気が付いた。見事な白髪をきつく結い上げ、大きな眼鏡をかけている。
客として紹介されていないが、この家の使用人だろうか。しかしそれにしては着ているものが上質で、立ち姿からもどことなく品の良さが感じられる。
彼女は食い入るような眼差しで、カインの横顔を見つめていた。
そのカインはと言えば、シャーロットの婚約者であるヘンリーと、古典音楽について意見を交わしていた。周囲には複数の客たちが取り巻いて、興味深げに耳を傾けている。その中に頬を染めてうっとりとカインを見上げる婦人も見受けられたが、あの眼鏡の女性の眼差しは、その手の艶めいたものとはまるで様子が異なっていた。
まるで信じられない異形を目の当たりにしたような、恐怖と驚愕に満ちた眼差し、とでも言おうか。
「ねえエルマ、あの方は? まだご紹介を受けていないと思うけど」
ビアトリスは双子の姉であるエルマにさりげなく問いかけた。
「ああ、彼女ですか。彼女は私たちのピアノの先生です。私たちが九歳のころからずっと住み込みでピアノを教えてくれているんです。よろしければご紹介しましょうか」
エルマはそう言って、「先生、ちょっとこちらにいらしてください」と眼鏡の女性に呼びかけた。しかし女性はエルマの声が聞こえなかったかのように、するりとドアの向こうに消えてしまった。
「まあ、先生ったら一体どうしたんでしょう。待っていてください。今お呼びしてきますから」
「いえ、いいわ。どなただろうって、少し気になっただけだから。お名前はなんておっしゃるの?」
「メアリー・ブラウン、母の遠縁なんだそうです」
「メアリー・ブラウン……ブラウン子爵家かしら」
「はい。そう聞いています」
「お母さまは、昔からあの方と親しくなさっていたの?」
「はい。母は子供のころからブラウン先生と仲が良くて、同じピアノの先生に師事していたこともあったそうです。……あの、先生がなにか?」
「いいえ。ちょっと知り合いに似ていたのだけど、私の勘違いだったみたい」
ビアトリスは曖昧に微笑んだ。
ビアトリスは王妃教育の一環で、貴族名鑑はすべて頭に入っている。ビアトリスの記憶にある限り、没落貴族のブラウン子爵家に、あの年頃のメアリーという女性は存在しないはずだった。