幸福な夢・前編(アーネスト視点)
幼いころの記憶をたどると、真っ先に思い浮かぶのはため息をつく母の姿だ。
――私がいけないのかしらね。
――王家の血を引いているのに、護衛騎士の子に負けるなんてありえないことだわ。私がいけないのかしら。ねえアーネスト、お母さまがいけないのかしらね。
その声はいかにも愁いに満ちていて、自分は母に申し訳なくて、情けなくて、たまらない気持ちになってしまう。そして今度こそ上手くやって見せると心に誓う。あの赤毛の男よりも己の方が優秀であることを必ず証明して見せると。
しかしそんなことは不可能であることを、心のどこかで理解していた。
母の声はどこまでも鮮明な一方で、父の声はろくに記憶に残っていない。叱責された記憶も、褒められた記憶もない。ただ覚えているのは値踏みするような眼差しだ。その目で見据えられるたびに、いつもあの赤毛の男と比べられていると感じていた。
そして赤毛の男、クリフォードとはほとんど会うことはなかったが、たまに顔を合わせたときは、いつも蔑むような、嘲るような冷たい眼差しを向けられた。教師たちがなにかにつけ「お兄さまはお出来になりましたよ」「お兄さまはもっとお上手でしたよ」と言っていることからしても、アーネストの感じた侮蔑はおそらく勘違いではないのだろう。
総じていえば、クリフォードは不気味で恐ろしくて圧倒的な、怪物のような存在だった。
アーネストを取り巻く環境は以上のようなものだった。それが世間的に見てどう定義されるかは、幼いアーネストの知るところではなかった。子供は自分のおかれた環境を普通だと思って育つものである。どこの母親も子供を見てため息をつくのだろうし、どこの父親も子供を値踏みするのだろう、ただ自分は王子である以上、他の者よりは恵まれているのだろう――それが当時のアーネストの認識だった。
のちに婚約者になるビアトリス・ウォルトンと出会ったのは、そんな折のことだった。
「お母さまが貴方のために選んだお嬢さんなのよ。うんと優しくしてあげてね」
母からそう告げられたのはお茶会の三日前のことで、その言葉が「ビアトリス嬢の心を掴んで婚約にもちこめ」を意味していることはすぐ理解した。母はそのビアトリス嬢とやらを、アーネストの将来の妃として選んだのである。それまで母の選択に異を唱えたことはなかったが、さすがにそのときは湧きあがる不安を抑えることができなかった。
ビアトリス・ウォルトンとは、どんな令嬢なのだろう。
我慢できないほどに不快な子だったらどうしよう。
他の令嬢を好きになっても、ビアトリス嬢を優先せねばならないのだろうか。
不安を母にぶつけることも出来ず、悶々と悩み続けた三日間。
幸いなことに、全てはアーネストの杞憂に終わった。
ビアトリス・ウォルトンは月の光のようなプラチナブロンドと菫色の瞳の持ち主で、招かれた令嬢たちの中でも際立って美しく、可憐で、愛らしかった。公爵令嬢だというのに、権高なところは少しもなく、守ってあげたくなるようないたいけな雰囲気をまとっている。
(この子が僕の将来の)
ビアトリスを前にして、ごく自然に笑みがこぼれた。すると彼女ははにかむように微笑みを返した。
(僕の将来の妃になる子なのか)
そう思うと、胸に甘いような苦しいような思いがせりあがってきた。
この子がいい。この子でなければ嫌だ。
母の言葉とは関係なく、ビアトリスに好かれたいと思い、どうすれば喜んでくれるだろうとあれこれ考え、実行した。彼女に選んでもらいたかった。彼女にもアーネストがいいと思ってもらいたかった。
そしてビアトリス・ウォルトンは正式に婚約者となり、様々なことが上手く回り始めた。
父はアーネストを王太子に選び、赤毛の怪物は表向き死んだものとして、遠い辺境伯領で暮らすことになった。母はいつも機嫌がよく、ため息をつくこともなくなった。全てはウォルトン公爵令嬢と婚約したおかげだが、アーネストがそれを口にすると、母はひどく苛立って二度と言わないようにと厳命した。
よく分からないが、ビアトリスとの婚約によって王太子になったのは、とても体裁の悪い、卑劣な行為なのだろう、アーネストはそう納得し、心ひそかに己を恥じた。
正式に婚約したのちも、ビアトリスは変わらずに愛らしかった。アーネストが何を話しても、いつも感心しきった様子で耳を傾け、「アーネストさまが国王になったら、きっと素敵な国になりますね」と顔を綻ばせた。彼女にそう言われると、本当に立派な国王になれるような気がして嬉しかった。
それでいて彼女はときおりこちらがはっとするような鋭い意見を述べることもあった。自分の婚約者は愛らしい上に聡明だ。アーネストが「すごいなトリシァは」と感心すると、照れながら得意そうにする姿がまた可愛らしかった。
夢のように甘く幸福な日々。
しかし母は自分たちの睦まじさに目を細めながらも、釘を刺した。
「それはいいけど、あまり付け上がらせちゃだめよ。ちゃんと手綱を取らないとね?」
「付け上がるなんて、そんな言い方をしないでください。トリシァはとてもいい子なんです」
「まあ貴方は分かってないのよアーネスト。貴方は優しすぎるから、なにを言われても許してしまうのでしょうけど、そんなことでは周囲に示しがつかないわ。身分というものがあるのだから、あの子を勘違いさせてしまっては駄目。ちゃんと貴方が手綱を取らないと、二人とも不幸になるだけよ」
最後まで首肯することはなかったものの、母の言葉はアーネストの心に一点の影を落とした。ビアトリスが自分の意見を披露するとき、得意げな表情をするとき、今まで通り微笑ましいと思いつつも、ふっとこんなことを考えるようになった。
果たしてビアトリスは自分の力でアーネストが王太子になったことを、知っているのだろうか?
もっともそれはほんの漣のようなものであり、本来であれば人生になんら影響を及ぼすことなく、いずれ消えてしまうような、しごく他愛もない代物だった。あの忌まわしい事件さえなければ、実際にその通りになっていただろう。
あの忌まわしい事件。あの災厄。その名をスティーヴ・スペンサーという。