獣の群れ
楽団の演奏が止まった。口を利く者は一人もおらず、会場内は水を打ったように静まり返っている。誰もが己の見たものを――お優しい王太子殿下が女性を殴ったという現実を、受け入れられずにいるようだった。
もっとも誰よりも現実を受け入れたくないのは、人前でビアトリスを殴打するという醜態を演じたアーネスト本人に違いないが。
床に倒れ伏していたビアトリスは、ゆっくりと半身を起こしながら、事前に己に言い聞かせていたことを反芻した。
けして驚いてはいけない。
ショックを受けてはいけない。
こんなことは慣れている、いつものことだという振りをしろ。
「申し訳ございません……アーネストさま」
立ちすくんでいるアーネストに向け、ビアトリスは頭を下げて謝罪した。
弱々しく震えているが、会場に響き渡る程度の声色で。
「本当に、申し訳ございません……っ」
婚約解消の理由がないなら作ればいい。
誰の目にも明らかな、分かりやすい理由を。
狂った暴君のイメージで、「お優しい王太子殿下」を塗りつぶせ。
怯えた声で謝罪を繰り返すビアトリスに対し、我に返ったアーネストが「あ、いや、今のは――」となにやら弁解を始めるも、そこにカインが絶妙なタイミングで割って入った。
「信じられないな、女性の顔を殴るとは! この怯えた様子からして、普段から暴力をふるっていたんだろう」
カインは怒りに満ちた表情で、打ち合わせた通りの科白を口にした。思わぬ相手の登場に、アーネストの顔が朱に染まる。
「な……違う――」
「カインさま、良いんです。私が悪いんです。いつもアーネストさまを怒らせてしまう私が……」
健気にふるまうビアトリス・ウォルトンと、そんな彼女を歯がゆそうに見守るカイン・メリウェザー。そして女性を殴り飛ばしていながら、謝りもしない王太子殿下アーネスト。会場中の生徒たちは、この三文芝居に釘付けだ。
カインは駄目押しとばかりに、片隅で成り行きを見守っていた一人の生徒に呼びかけた。
「シリル・パーマー! お前はアーネスト殿下が完璧な王太子の仮面の陰で、女性に暴力をふるっているのを、知っていたんじゃないのか?」
「え、ぼ、僕ですか?」
いきなり名指しされたシリルは、慌てふためいて辺りを見回したのち、「いやその……ノーコメント! ノーコメントでお願いします!」と逃げを打った。
シリルはマリアの件がある以上、カインの言葉を真正面から否定しづらくて、とっさにああ返答したのだろう。しかし真っ先に王太子の味方をすべきシリルが「やってない」と言わなかったことは、実に決定的な効果を人々にもたらした。
「え、本当にいつもビアトリス嬢に暴力をふるっていたのか?」
「いやまさか、あのアーネスト殿下が」
「でも今、確かに……」
「信じられないわ、あの優しい王太子殿下が」
「でも目の前でああいうのを見せられちまうとな」
生徒たちの囁きかわす声がする。
お優しい王太子殿下、俺たちの王太子殿下の虚像がゆっくりと崩れ落ちていく。
「あのシリル・パーマーが否定してないんですものね」
「ショックだなぁ、本当に」
「なんか裏切られた気持ちだよ」
ざわめきに耳を傾けながら、ビアトリスは複雑な思いをかみしめていた。
これがいつもアーネストのやっていること。
分かりやすい人物像を演じ、烏合の衆を扇動する。
実際にやってみると、なんて簡単で、他愛もなくて、そして虚しい行為なのだろう。
「立てるか、ビアトリス」
カインが手を差し出した。
「申し訳ございません。足を……」
「足をひねったのか。では俺が医務室まで運んで行こう」
「申し訳ございません」
「俺には謝らなくていい。俺はあいつみたいに殴ったりはしない」
カインは聞こえよがしにそういうと、力強い腕でビアトリスを軽々と抱き上げた。アーネストはそれを見て、こちらに一歩踏み出しかけたが、結局それ以上動けなかった。
ビアトリスは蒼白になったアーネストと一瞬視線が絡んだものの、そのまま目を逸らしてカインの胸に顔をうずめた。
これで本当にお別れだ。
背後からトリシァ、と呼び止める声が――か細い少年の声が聞こえたような気がしたが、あるいは幻聴だったかも知れない。
ビアトリスを抱えるカインの前に、人垣は自然に割れて道を作った。
打ちひしがれた体で運ばれていくビアトリスの耳に、生徒たちの囁きかわす声が聞こえる。
「なんて痛そうなのかしら」
「女相手にやり過ぎだよなぁ、いくら相手があのビアトリス・ウォルトンにしたってさ」
「そもそも彼女の悪評自体どうなんだろうね。二人の不仲って、実は殿下の方に問題があったりしてね」
「そりゃどう考えても普段から暴力振るって虐待してる方が悪いだろ」
生徒たちの囁きかわす声が聞こえる。
いかにも義憤に駆られた体をして。
その実、とても楽し気に。
ざわざわと、ざわざわと悪意が広がっていく。
「いや実はさ、俺は前から殿下のこと、なんか胡散臭いと思ってたんだよね」
「ああ分かる、なんか出来過ぎでわざとらしいっていうかさぁ」
それはまるで、新たな獲物を見つけた獣たちの舌なめずりのようだった。