私が死んだら母が困りますから(アーネスト視点)
「何をしている!」
アーネストは咄嗟に女性に駆け寄ると、細い腕をつかんで強引にこちら側に引き戻した。そして勢い余って、二人そろってバルコニーに尻もちをついた。
「痛っ」
女性が小さく悲鳴を上げる。
「すまない!」
アーネストは慌てて立ち上がると、女性に手を差し伸べた。女性は一瞬ためらったのち、その手を取って立ち上がった。正面から見た女性は思っていたよりもはるかに若く、アーネストよりも年下に見えた。
「乱暴なことをして申し訳ない。その、落ちそうに見えたので」
アーネストは弁解するように言った。
対する女性の反応は、礼を言うか、それとも余計なことをするなと怒るかの二通りを予想していたのだが、実際はそのどちらでもなかった。
「そうでしょうね」
女性は淡々とした口調で言った。
「ちょっと、ここから落ちたらどうなるだろうって思ったんです」
「どうなるだろうって、普通に考えて、死ぬんじゃないか?」
「やっぱり死にますか」
「死ぬだろう、この高さだし、下は石畳だし」
「そうですよね」
しばらくの間、沈黙が続いた。
「ひとつ質問していいかな」
「はい、なんでしょう」
「君は死にたいのか?」
「ええ、少し」
そこは否定して欲しかった。
たとえ口先だけでも彼女が否定してくれたなら、自分はさっさと彼女を置いて立ち去ることができただろうに。ここまであからさまな自殺志願者を置いて帰ることのできる神経を、アーネストは持ち合わせていなかった。
「大丈夫です。本気で死ぬつもりはありません。私が死んだら母が困りますから。ただ下を見ているうちに、ふっと今落ちたら楽になれるかなって思ってしまっただけなんです。単なる気の迷いですから、今はもうそんな気はありません」
母が困る。
悲しむではなく困るという言葉が、この女性の置かれた状況を端的に表しているように思われた。
「何か、事情があるんだね」
「はい。事情があるのです」
「……もしかして、望まぬ結婚を強いられているとか」
「ええまあ、そんなところです」
女性は寂し気に微笑んだ。
「今日のことはどうか内密にお願いします」
「もちろん、誰にも話すつもりはないよ」
「ありがとうございます」
女性は一礼すると会場内に戻って行った。
何やらどっと疲れてしまって、そのまま手すりにもたれかかっていると、やがて聞きなれた能天気な声が響いた。
「ああ殿下、ここにいらしたんですか! もう、勝手にいなくならないでくださいよ」
見ればシリル・パーマーが不満そうな顔つきで立っていた。
「悪かったな。……それで、フェリシア嬢について聞きだせたのか?」
「彼女は気分が悪いので外の空気を吸ってくると言って、兄とは別行動をしているそうです。それで今テラスを片っ端から回ってるとこなんですが、なかなか見つからないんですよ。ここにもいないみたいですねぇ」
「そうか……」
先ほどから感じていた嫌な予感が、どんどん現実味を帯びてくる。
「ちなみに彼女はどんなドレスを着ているんだ」
「灰色のドレスだそうですよ。髪飾りは灰色のリボンだそうです」
予想通りの返答に、アーネストは思わず頭を抱えた。