アーネストの縁談(アーネスト視点)
ここで話は一か月ほどさかのぼる。スタンワース家で首飾り盗難事件が起きる三日前。王太子アーネストは国王である父アルバートの執務室へと呼び出されていた。
「アーネスト、お前に縁談が来ている」
父アルバートが重々しく告げた科白に、アーネストは耳を疑った。
「縁談……ですか」
「そうだ。相手はエヴァンズ子爵の妹、フェリシア嬢だ。家格は少々足りないが、この状況だから文句は言えない。まあ婚約が正式に決まったら高位貴族の養女にするという手もあるしな」
「殿下、フェリシア嬢は妻の遠縁の娘です。大変美しくて気立ての良いご令嬢だそうですから、殿下もきっとお気に召すと思います」
横からパーマー宰相が言い添える。
「たとえ気に入らなくても気に入ったふりをするんだぞ、アーネスト。いつまでも『婚約者に逃げられた王太子』のままでは体裁が悪いからな。悪い噂を払しょくするには、新たな婚約を結ぶに限る」
「陛下、そういう言い方は」
パーマー宰相が困ったようにたしなめるが、アルバートは「ここで取り繕っても仕方ないだろう」と軽く肩をすくめて見せた。その後、アルバートは初顔合わせの日取りや、そのときの心構えなどについてあれこれ話していたが、ふいに顔をしかめて問いかけた。
「どうした? せっかく婚約が決まりそうだというのに、お前はあまり嬉しくないのか?」
「とんでもありません。ただ急なことなので、少し驚いているだけです。……その、まだ当分先のことだと思っていたので」
アーネストが弁解すると、アルバートは「まあ確かに、私としてもこんな早くに決まるとは思わなかったからな」と頷いた。
「ともあれ結構なことじゃないか。お前に嫁いでくれるのだから、感謝して、今度こそ大切にするように」
「はい。もちろん分かっております」
話はそれで終わりと言わんばかりの雰囲気に、アーネストは一礼して退室した。
自室に戻ったアーネストは、そのまま長椅子に倒れ込んだ。頭の中では今しがた聞いた内容がぐるぐると回り続けている。
縁談。
自分に縁談。
正直に言えば、アーネストはそのことをあまり歓迎する気にはなれなかった。
むろんアーネストとしても、新たな婚約を結ぶこと自体に異を唱えるつもりはない。将来王位を継ぐ者として、伴侶を得るのは当然のことだし、アーネスト自身も「いずれは」という気持ちは持っていた。
加えて言うなら、父に言われた内容についても当然のことだと納得している。「人前で婚約者を殴りつけ、婚約解消された王太子」という醜聞はまことに不名誉極まりないし、下手をすれば王家そのものの権威の低下にもつながりかねない。
その悪いイメージを払しょくするためには、アーネストが新たな婚約を結び、人前でその婚約者と仲睦まじくふるまって見せるにしくはない。
だからフェリシア・エヴァンズとやらを新たな婚約者として迎えるのは、自分にとっても王家にとっても、大変喜ばしいことだ。そう、そのことは十分に理解している。理解しているが、しかし――。
――アーネスト殿下もどうかお幸せに。民に慕われる立派な国王になってください。
記憶の中で、銀髪の少女が微笑みかける。
実に未練がましい話だが、自分はまだかつての婚約者、ビアトリス・ウォルトンのことが忘れられないでいるのである。
彼女の声、彼女の眼差し、彼女と過ごした日々のことが、いまだ脳裏に焼き付いている。
もう二度と触れられない。面と向かって愛称を呼ぶこともできない相手だというのに、彼女を求める心が消えてくれない。
だから新たな婚約を結ぶとしても、もう少し先であってほしかった。もう少し心が落ちついて、彼女のことを思い出しても胸が痛まなくなってから――果たしてそんな日が実際に来るのか、甚だ心もとないが。
(仕方がない。なにもかも身から出た錆だ)
アーネストは深々とため息をついた。
エヴァンズ家の令嬢。フェリシア・エヴァンズ。
彼女のことを愛せるかどうかは分からない。
しかし仮に愛せなかったとしても、仮に一生ビアトリス・ウォルトンを忘れられなかったとしても、婚約者となった暁には、彼女に対してできる限り優しく誠実に接していきたいとは思う。
もとより本心を押し隠して優しい笑みを浮かべるのは、アーネストの得意とするところである。なにしろあの一件があるまでは、お優しい王太子殿下として、周囲全てを欺いてきたくらいなのだ。
フェリシアの方さえ仲良くするつもりがあるのなら、自分は死ぬまで優しく愛情深いパートナーを演じる覚悟はできている。
しかし――仲良くするつもりがあるのだろうか。
その辺りが今一つ腑に落ちない点だった。
父の「こんな早くに決まるとは思わなかった」といういい方からしても、エヴァンズ家はおそらく前向きなのだろう。しかしフェリシア本人は?
貴族社会では、あの殴打事件は今も記憶に生々しい。フェリシアだって知らないわけでもないだろうに、このいわく付きの縁談を喜んで受け入れているのだろうか。
アーネストがその答えを知る機会は、意外と早く訪れた。