一章: 人生の勝者
「…突然ですみませんが、恐怖に耐性などはありますか?」
「…は?」
目の前で目線も合わせずにパソコンのキーボードを音を立てて叩いていた職員が、聞き取るのに苦労するぐらいの声で僕に問いかけた。この場所で聞くには不適切な質問に、間抜けな声を思わず出してしまう。
「恐怖に耐性はあるかと聞きました」
「いや、本当に突然過ぎて…なんなんですか?」
至極真っ当な僕の質問をスルーする職員に、僕は苛立ちを隠せなかった。こんな会話をするために、僕はここに来たんじゃない。落ち着きを取り戻すためにあたりを見回すと、僕と似たような、またはそれ以下の風貌の大人がくたびれたスーツや汚れた服に包まれて他の職員と向かい合っていた。負の雰囲気が漂うここは、公共職業安定所。所謂ハローワークだ。ここ数年間で失業率が極端に上昇している日本では、未来への希望を断った人々ばかりがここに列をなすようになった。しかし、まさか僕まで、その列を構成する一員になるだなんて。
この状況になるまでのプロセスを語るのには1分ともかからない。会社が倒産して僕はある日突然自分の肩書が消えることを告げられた。ただそれだけの事。失業してから一週間が経とうとしている今日、僕は重い足取りでここに食い繋ぐ為の仕事を探しに来た。それなのに、僕と同じ様に目に光がないこいつは、なんでそんな無駄なことを聞くんだ?何秒立っても返事をしない相手に、僕はため息をついて乱暴に言葉を返す。
「…わかりましたよ。耐性でしたっけ?あるんじゃないですか?ホラゲとかよくやるし」
「成程」
「成程って…てか、恐怖ってどういう?色々あるじゃないですか、ほら…おばけ?とか、グロとか…」
「全般です」
淡々とした表情のまま、職員はエンターキーを壊すかのように強く叩いた。漸く彼は僕を見ながら口を開く。
「26歳、ですよね」
「そう書いてあるでしょ」
僕は求職申込書を指さした。職員は無表情で何度か頷いた。
「希望の職種は特になしと書いてありますが、本当にこだわりはございませんか?」
「ないです。なんでもいいんです。とにかく、明日にでも働ける所がいいんです。それだけが望みです。」
「希望の年収もこのままでいいですか?」
職員は僕が記入した用紙を指でトントンと突いた。
「はい。高ければ高いほどいいですけど、とくにこだわりはないです。」
「…わかりました。…もし、高橋さんがご希望でしたら、非常に給与が高い職業をご紹介できるかもしれません。」
その言葉を終える前に、僕はカウンターに身を乗り出す。
「ぜひ、聞かせてください」
「…今現在、一人だけ募集している所があります。条件が、ある程度の体力と強い精神力を持っている20歳から30歳の男性であること。年収は500万です。」
「ご、500万…、えっと、円で?」
「円です」
思わず通貨を聞いてしまう程にはその数字に僕は驚愕していた。20代後半でその年収の日本人は、一体上位何%なのだろう。
「そんなに給料が高くて、体力や精神力が必要って、結構危険なんですか?」
「場所や状況によりますが…まあそうですね。職業の内容は、面接先で説明されますので、今はお話することは出来ません。」
後半の言動に少し不審に思いながらも、今すぐにでも働きたい僕は無視した。正直、体力や精神力には自信がある。前の勤務先がブラックで連勤、祝日出勤は当たり前だったし。僕はその条件に当てはまる確信が既にあった。
「ただ…、…プライベートを聞くようで申し訳ございませんが、高橋様のご両親はどこにご在住でしょうか?お二人、またはお母様かお父様の了承が必要なので…」
「あ、両親は他界してます…」
「…失礼しました。では、必要なのは高橋様本人の了承のみですね。」
「…えっと、何のですか?」
面接前に親の了承が必要な職と聞くと、途端に不穏な雰囲気が漂う。
「まず、この職に関する話をどんな形であれ共有することは全面的に禁止されています。そして、高橋さんの戸籍が変更される可能性があります。面接前に、名前、年齢、住所や出生から現在までの記憶などが一部書き換えられることを許可する必要がありまして…」
突飛な単語の羅列についていけず、僕は一時停止する。戸惑う僕に対して、職員は問う。
「嫌ならやめますか?」
「嫌と言った場合は、どうなりますか?」
僕は恐る恐る聞く。職員は少し困った表情を貼り付けた。
「今日はお引取り下さい、としか言えません。高橋様と同年代の方も多くいらしていて、殆どの職は別の希望者で埋まっていますので…」
僕は2つの未来を想像した。戸籍は変えられ、一体どうやるのかはわからないが何らかの方法で記憶まで変えられた僕が裕福に生活する映像と、おそらく近い未来である、無精髭を生やして冷たい風に吹かれながら公園の水を飲んでいる僕の映像。そうだ。僕に、最初から選択肢なんて無かったんだ。
「そこに、紹介状を書いて下さい。お願いします。」
「今まで説明した条件をご理解頂いた上で、面接をお受けになるということで宜しいでしょうか?」
「はい。是非、そこの面接を受けさせて下さい。」
僕が職員から差し出された用紙をほとんど読まずにサインをしている間に、職員は電話をかけ始めた。一分ほど話してから電話を切ると、こちらに改めて向き直した職員が用紙を僕から受け取って紹介状と共に封筒に入れる。
「明日以降、紹介状に記載されている地図にある場所に行って下さい。日時は明日から一週間以内であれば、高橋様のご希望のタイミングで結構だそうです。入り口にカウンターがあり、そこで面接をしにきたと言っていただければ面接会場に案内されるらしいので、この封筒を忘れずにご持参の上で、面接をお受けになってください」
僕は封筒を受け取り、軽い足取りで家に帰る。こんなの、明るい未来が約束されたも同然じゃないか。どうせこれまでの26年間、いいことなんて何一つ無かったんだ。金を手にして今までの嫌なことを忘れられるのなら、願ったり叶ったりだ。勝手に未来の僕の想像を広げてにやにやと笑う僕の表情を見て、すれ違う通行人は僕から距離をとったが、それを気にする事が無駄だと今の僕なら思える。何故なら、今の僕は人生の勝者なのだから。近い将来、僕は一年間に500万を手にする男になる。その為に、僕は絶対に面接に受からなければならない。
絶対に、ここで決めてやる。僕は、そう心に刻んだのだった。