後編
あれから数日経った。どうやらよほど、陛下たちは忙しいらしい。いつもは一日に一度、必ず姿を見せてくださる陛下も、それが無理な場合には代わりにといわんばかりに陛下の様子を教えに来てくれるエアフルト様も、わたしが目覚めて会ったきりわたしの元に訪れることはなかった。
時折こういうことがあるけれど、その時は、大体何かがあった時だ。ということは、やっぱり今回も何かあったのだろう、と思う。
なんとなく、先日の夢のこともあって嫌な予感が拭えない。けれどいくらわたしの祖国とはいえ、他国なことに変わりはない。大きな取引をしていたわけでもないし、それなりに国交があったとはいえ、物理的な距離は遠い。
つまるところ、祖国になにかあったとしてもこの国の“何かあった”基準には当てはまらないのだ。
緩く首を振って、わたしは歩調を早めた。
ちゃんと宮廷医からもう大丈夫、というお墨付きをもらっている。いくらお飾りの王妃とはいえ、何かあったのならば少しぐらい手伝える。今までだってそうしてきたし、これからもそうするつもりだ。
その行為が陛下たちにとって迷惑ではない、とは言い切れないけれど。それでもわたしは、昔の自分から少しでいいから変わりたかった。
あんなことを言って自分から婚約破棄したくせに、最後の最後までわたしの心配をしていたローレンツ様に、今度会った時わたしはもう大丈夫だから。心配しなくてもいいのだと、そう伝えられるように。
陛下の執務室に近づくにつれて、段々人気がなくなっていく。それはいつもの通りで、だからわたしも特に気にしていなかった。適当なところでここまでついてきてくれたアルマに礼を言って、アルマが戻っていくのを見届けてからわたしは先に進む。見慣れた護衛に頭を下げて前を通れば、陛下の執務室はもうすぐだった。
足元を冷たい風が通り抜けていく。どこかから風が入り込んでいるのだろう。この国の冬は寒いから、そろそろ備えなければならない。特にわたしは他の人よりも寒さに強いわけではないから。
先のことに思いを馳せながら見えてきた執務室に足を早めようとして、反対にぴたり、とわたしの足は動くことをやめてしまった。
あと数歩。あと数歩で辿り着くのに、動けない。
うっすらと扉が開いているせいだろう。途切れ途切れではあるものの、この距離でも執務室の声が聞こえてくる。
「……、……だから……―レンツは」
「それでも……しないでしょう」
陛下とエアフルト様の声だ。はっきりとは聞こえない。それでも――それでも、二人の会話の内容が、なんとなく掴めてしまった。
ふらり、と足元から崩れる感覚がする。どうして陛下たちが知っているのか、その話をしているのか。わたしには分からない。それでも、これが紛れもない現実であることには、かわりはなくて。
わたしは、ぐっとおなかの奥底に力を入れた。ふらつく足を支えて少しでも歩きやすいように。はしたないと分かっている。けれど石のように重たい足を思い切り、振り上げるように動かして。そうしてようやくわたしは、一歩前に進んだ。
かつん、とヒールは床を蹴り上げる大きな音が廊下に響く。聞こえていたぼそぼそとした話し声は、ぴたりと止まってしまった。かわりに、靴底と床が擦れる音が響いた。ギィ、と蝶番が軋む音がして、目の前の扉が開く。
姿を現したのは、案の定とでもいうべきだろうか。エアフルト様だった。少し、いつもよりやつれているように見えるのは気のせいだろうか。
「王妃様……」
わたしを呼ぶエアフルト様の声は、覇気がないというのだろうか。しまった、とでも言いたげな、そんな声だった。
「ユーディット? もう大丈夫なのか」
その奥から、エアフルト様の言葉でここにいるのがわたしだと知ったのだろう陛下が、声を掛けてくる。その声にも、やっぱりいつものような覇気はなくて、どこか疲れ切ったようなものに、わたしは聞こえてしまった。
「はい、おかげさまで。それで、いつものように、何か手伝えることがあれば、と思ってこちらに」
「そうか。いつも感謝している。だが、今は……」
「祖国ダールマイヤーになにかあった。だから、わたしには何もさせられないと。そういうことでしょうか」
思っていたより、しっかりした声にわたしは胸をなでおろす。けれどそれが、エアフルト様にとっては意外だったらしい。目を丸めて、まじまじとわたしの方を見ている。陛下がどうおもわれているのかは、残念ながらエアフルト様のお姿に隠れていて、分からないけれど。多分きっと、同じような顔をしているのでは、と思った。
エアフルト様は少し視線を彷徨わせて、それから後ろを向く。陛下に、どうするべきかと視線だけで判断を仰いでいるのだろう。
しんと、あたり一帯が静まり返る。季節柄以外の寒さをわたしは少し感じながら、ただじっと待った。
「……王妃様、中に入って。冷えるから」
「ありがとうございます」
多分時間にしたら、ものの数秒なのだと思う。けれどわたしにとったら、永遠にも思える時間に感じてしまった。張りつめていた息を吐きだしてから、エアフルト様が譲ってくれた入り口をくぐって執務室に入る。
そこには少し、いつもより険しそうな顔をした陛下がいた。机の上に両肘をついて、組んだ手の上に顎をのせている。元より綺麗なお顔をされていらっしゃるから、微動だにされないことも相まってその光景は一枚絵のようだと思う。
ぱたん、と後ろで扉が閉まる音がした。足音がしてエアフルト様がわたしの傍を通り抜けて、陛下の横に移動された。
「……落ち着いて聞いてほしい」
しばらくの沈黙の後。まだ声に迷いがある様子で、陛下が切り出された。
「少し前に君の祖国ダールマイヤーは内乱状態に陥った」
がつん、と頭が鈍器で頭を殴られたような気がした。けれどどうして、とは思わなかった。昔のわたしなら思っていたかもしれない。作られた小さな箱庭の中しか見ていなかったから、何も知ろうとしていなかったから。
今も違う、とは言い切れはしないけれど。それでも随分と、マシにはなったと思う。
「その報告が来たのが数日前だ」
「ちょうど、王妃様が目を覚まされた時くらいかな」
つまり、報告が届くまでの日数を考えればわたしが倒れていた時には、もう――。
夢はやっぱり、不吉の予兆だったのだろう。嫌な予感というのは存外あてになるらしい。ならなくてもいいのに。
わたしは自分の気持ちを落ち着かせるように浅く息を吐いた。
「それで、現状の方は……」
二人ともが、揃ってなんとも言えない顔をした。それだけで分かってしまう。状況は良くないのだろう。他国が介入していなければいいけれど、と思う。けれどはっきりと否定できるだけの材料もない。むしろ、不安材料の方がある。
どうしたものか。とはいえ、ここでわたしが悩んだところで事態が好転する訳ではない。その程度で好転するなら、そもそも内乱なんて起こっていない。なにせあの国にはローレンツ様がいるのだから。
そこで、はっとした。俯き気味になっていた顔を上げて、二人を見る。
正直聞いていいものか迷う。それでも、聞かずにはいられなかった。
「あの、失礼を承知でお伺いいたしますが……ローレンツ様は、ダールマイヤーの皇族は、どう……」
「実家のシュトルム公爵家の現状よりそちらを先に聞くか」
陛下の口元が、ふ、と緩む。それは怒っている、というにはあまりにも優しい顔にも見えたけれど、思わずわたしは息を呑む。
確かに普通、生家の方が気になるはずだろう。シュトルムといえば、ダールマイヤーでは筆頭公爵家であったし、内乱であれば真っ先に狙われていてもおかしくはない。
けれどだからこそ、そんなシュトルム家の娘としては、国家の柱たる皇族がどうなったか真っ先に聞いたとしてもおかしくはないはずだ。
わたしの失態は、何よりも先にまず、ローレンツ様の名前を出してしまったことだ。そうでなければ、まだただの失態だと言い逃れられただろうに。
失敗したな、と思ったけれどもう遅い。そもそも、たぶんあまり隠せていなかったような気もするし。こういうところがわたしは甘いのだろう。
微妙に気まずい空気が流れる。その空気を断ち切ったのは、エアフルト様だった。
「とりあえずまず、順番に説明していっていいかな? 本当はこの間、こじれる前に話しておこうと思ったんだけど」
と言ったところで、陛下が凄い目でエアフルト様をにらみつけた。エアフルト様もエアフルト様で「あ、やべ」なんて呟いているから、たぶん、エアフルト様の独断だったのだろう。
この間、というところで、話があると言って戻ってこられたときのことを思い出す。なるほど。あの時したかったのはこの話だったのだろう。それならば確かに、扉越しで出来る話ではない。
「マリウス。お前でなければ今この場で切り捨てていた」
淡々と、怒気すらも乗らないその声は、だからこそ怖かった。その声がわたしに向けられたものではないと分かっていても、思わず背筋が凍ってしまう。
けれども、その声を向けられた当の本人であるエアフルト様はといえば。怯えるどころか、むしろ軽快に笑っている。いつも思うのだけれども、エアフルト様のこういうところは、本当にすごいと思う。
「あはは、いやーイェレミアスは隠したかったみたいだけど、いつかバレるものだろうし、王妃様にも知る権利はあるよなーって思ってさー」
挙句の果てに、反省していないと堂々と宣言しているのだから、すごいとしか本当に言いようがない。
「……まあいい」
呆れたように陛下が呟くと「それは良かった!」とエアフルト様が元気に返す。陛下がもう一度思い切りエアフルト様をにらみつけられたのは、まあ、当然のことだろう。
「簡潔に、結論からいこう」
わざとらしい咳払いの後。陛下がわたしに視線を向ける。ごくり、とわたしは唾を飲み込んだ。
「ダールマイヤー帝国の皇太子、ローレンツ・ダールマイヤーは死亡が確認されている」
喉の奥で、飲み込んだはずの唾が詰まった。
ぐるぐると陛下の言葉が頭の中で回る。
ローレンツ様が死んだ? そんなまさか。どうして。だってローレンツ様は、誰よりも国民に寄り添っていた。わたしに話されることはなかったし、当時は気づけなかった。けれどずっと、ダールマイヤーの未来を考えていらした。それなのに。
「皇帝と皇妃、幾人かの側室と皇子、皇女は未だ生死が分からないとのことだ。まあ、大方まだ生きているだろう。主だった貴族たちの半数は近隣諸国に逃げおおせたか、死亡が確認されている。残る半数は交戦状態だ。シュトルム公爵家もこちらの交戦状態の方に当てはまる」
他の皇族が生きていて、ローレンツ様だけが死んだなんて。本当に、信じられない。そんなの、あんまりだ。ひどすぎる。取り乱してしまいそうなところを、必死に抑え込んで二人を見る。
エアフルト様は困ったような笑みを浮かべながら、肩を竦めた。
「そもそもこの内乱っていうのが、皇帝が皇太子殿を殺したから始まったことなんだけどね」
わたしは、呆然とするほかなかった。
確かに皇帝陛下とローレンツ様の折り合いは、あまりよくなかったと聞いていたけれど。それでも、殺されてしまうほどに仲が悪かった記憶はない。
どうして。と本日二度目の疑問は、小さな声ではあったけれどわたしの口から、滑り落ちていた。
「ダールマイヤーの情勢は知っているな」
陛下が静かな声でわたしに問いかけてくる。わたしはこくん、と出ない声の代わりに頷いた。
「皇太子殿が留学していたことも知っているな」
留学。わたしはその言葉を口の中で転がす。知らない。そんな話は。だからわたしは首を軽く左右に振った。エアフルト様と陛下がお互いの顔を見合わせている。「そうか」と陛下が呟いた。
「暫く国を空けたことがあるのは?」
「……それは、よく、ありましたけれど」
「よく、か」
陛下は組んでいた手を解き、考え込むように顎に手を当てた。
「まあそれが主たる原因だ。いや空けていたことが問題なのではなく、空けさせられることになったのが原因というべきか」
「どういう、ことでしょうか」
ローレンツ様はいつも、外交だと言って国を空けていた。だからわたしは、多いなとは思っていたけれど、特に疑問を持つことはなかった。けれど、真実はどうやら違うらしい。
今になって知ることが出来るかもしれない真実に、知らない間にドレスを握りしめていた。
「簡単に言っちゃうと、皇帝陛下は皇太子殿がとっても目障りだったんだよ。自分のやりたいように出来なくなっちゃうから。まあ、それは皇帝陛下の自業自得っていうか、誰の目から見ても皇太子殿の方が正しいんだけどさ」
つまり。ローレンツ様はダールマイヤーをよくしようとして、駄目にしている原因に殺された、ということだろう。私利私欲のために。
あんまりにも理不尽過ぎる仕打ちに、わたしは怒りすらも通り過ぎて言葉も出なかった。
「まあ、それで皇太子殿が抑えていた不満が爆発して今に至る、って感じなんだけど」
「問題は我が国は手を出すか出さないか、出すとしてどちらに力を貸すべきなのかということだ。王妃の祖国となれば無視できる問題ではない」
「イェレミアスー、眉間の皺―」
からかうようなエアフルト様の言葉に、より一層陛下の眉間の皺が深くなった。
「大義は叛徒側にあるのは明らかだがな」
どうやらエアフルト様を無視して話を続けるらしい。それが不服らしいエアフルト様は横でぶつぶつ、と文句を言っている。
「先ほどはちょうどその話し合いをしていた。そしてこうして話せばあなたの判断は目に見えている。だから今は手伝えることはないというつもりだった。まだもう少し聞かせるつもりはなかったという理由もあるが」
ふう、と陛下は息を吐いた。それから未だに文句を言い続けているエアフルト様に向かって「うるさい」と一刀両断した。エアフルト様は渋々、といった様子ではあったけれども文句を言うのをやめる。
けれどわたしはそんな二人のやり取りを見ながらも、気になることがあった。まだもう少し、とはどういうことだろう。いずれまあ、話さなくてはならないのは分かる。けれどわざわざこう伝えると言うことは、なにかしら、話すタイミングのようなものが陛下の中で決まっていた、と言うことなのだと思う。
そのタイミング、というのはいったいいつのことなのだろう。全てが終わってから、という様子でもないように思うし、首を傾げざるを得ない。
そんなわたしを見て、陛下は視線を少し泳がせる。それから視線をわたしの後ろの扉に固定した。
「そういうことだ。故に出来ればあなたにはもう暫く部屋で大人しくしておいてほしい。どうなったかの報告は、きちんとする」
「……分かりました」
いろいろと聞きたいことはある。けれど言外にわたしは戦力外で、邪魔だと告げられて、これ以上話すことはないのだと突き放されてしまってははどうしようもない。
スカートの裾を掴み、膝を折って頭を下げる。そうしてわたしは、そのまま陛下の執務室を辞した。釈然としない気持ちと、ぽっかりと穴の開いてしまった心に吹くすき間風を感じながら。