中編
苦しんでいるわたしをよそに、また景色が変わる。
ここは、どこだろう。あたりをぐるりと見渡すと、ほとんど物がなかった。あるのは長ソファが向かい合って二つと、その間にあるローテーブル。あとは細々としたものだけ。質素とも呼べるその部屋は、けれどお金がかかっていないわけではない。置いてあるものはどれも派手さはないけれど、品が良くて一目でいいものだと分かる。
わたしは、この部屋に見覚えがあった。いや、あった、というよりもむしろ何度も訪れている。知らない方が、おかしい。
だってここは、ローレンツ様の私室だ。わたしも最初に訪れたときは随分と驚いたものだけれども、他の誰でもないローレンツ様自身からお話を聞いて、納得したのをよく覚えている。
ローレンツ様はその生まれに反して、部屋の装飾に限らず身に着けるものも華美であることを好まなかった。最低限、他の人から下に見られない程度である服を選び、身に着ける。装飾品であったって同じだ。むしろ、装飾品はパーティなどよっぽどのことでなければ、身に着けることはなかった。
多分、性分のようなものなのだろう。わたしはそう思っていたけれど、そんなローレンツ様がわたしは好きだった。
さて。今度はどのときだろうか。三度目の時と同じく、ローレンツ様の私室に入ったことは一度や二度ではないから、どの記憶を掘り起こしているのか分からない。
ソファに向かい合って座り、お茶をしている二人へと視線を向ける。嬉しそうに笑っているわたしに対して、ローレンツ様の眉間には少しだけ皺が寄っている。よくよく見なければ分からないほどの皺だけれど、普段穏やかに笑っているローレンツ様もそんな表情をするのか、とわたしは驚きを隠せなかった。
今のわたしが驚くほどだ。ということは、過去に本当にこんなことがあったのなら、わたしは間違いなく覚えているはずなのだけれど。いくら記憶の中を引っ張り出してみたところで、全く覚えがない。
どういうことだろう。ここにきて、今度こそ夢を見ているのだろうか。もしそうなのであるのなら、何もこんな夢じゃなくてもっと――それこそ、過去の幸せな記憶のような、楽しい夢を見せてくれたらいいのに。
少し不貞腐れながらそんなことを思っていたわたしの耳に声が飛び込んできた。
「どうかされましたか? 先ほどから、浮かないお顔をされていますけれど……なにか、ございましたか」
「……ああ、いや、大丈夫だよ。少し、考え事をしていて。すまない。せっかくユディと二人で過ごせる時間なのに」
かちゃん、と食器が重なる音がした。夢の中のわたしがカップをソーサーの上に戻した音だ。心配そうにローレンツ様を眺めながら、夢の中のわたしは再度問いかけた。
「お気になさらないでください。二人で過ごせる時間は、今だけではございませんから。……よほど深刻なお悩みなのではございませんか? わたくしの方はこうしてお茶するだけですし、また後日にしてくださっても……」
「ごめんね、気を使わせてしまって。本当に大丈夫だから。せっかくユディの好きなお菓子を取り寄せたんだ。さあ、ほら、食べて」
ローレンツ様は色とりどりのお菓子を目の前に並べる。どれもこれも本当にわたしの好きなものばかりだ。夢の中のわたしの目が輝く。もうすっかり、意識はお菓子に向かっているようだった。
けれど、わたしにはわかった。
――ローレンツ様は、明らかに話をそらした。それも、無理やりに。どうして夢の中のわたしが気が付かないのかと疑問に思うほどに、不自然だった。なによりもそれがどうにもローレンツ様らしくない。ローレンツ様は、もっと物事をスマートに運ぶ方だった。だからやっぱりこれは、夢なのだろう。
そう結論付けたわたしの頭の中で、何かが囁く。――本当に、そうだろうか、と。
今の今まで、繰り返していたのは夢ではない。過去だ。わたしの記憶の再生とでもいうべきだろうか。だというのにだ。突然、夢に切り替わるなんて少し不自然すぎる気がする。とはいっても覚えがないことには変わりはない。
わたしは図りかねていた。どう判断するべきか。けれどそうして悩んでいる間に、視界が暗転した。
*
景色は、変わっていなかった。先ほどまでと同じ、ほとんど物がないローレンツ様の部屋。向かい合ってソファに座る、夢の中のわたしとローレンツ様。先ほどまでと変わらない景色で違うのは、夢の中のわたしの服装くらいだろうか。
ああ、それから。テーブルの上にお菓子もお茶もない。ローレンツ様の表情も、夢の中のわたしの表情も硬かった。ピリッとした、張りつめた空気が部屋の中を支配している。
わたしは、夢の中のわたしが着ているドレスにも、この重苦しい空気にも、覚えがあった。けれど今がどのタイミングなのかは分からない。息を呑んで見守る。
いや、本当は見たくなかった。あの絶望を、息苦しさを、もう一度味合わなければならないなんて、地獄でしかない。そう、思うのに。もしかしたら、もしかして。先ほどは夢のようだったし、これだって実は夢で。わたしの知っている過去と変わるのでは、と思ってしまった。夢を、見てしまった。
それで現実の過去が変わるわけでもないということも、分かっているのに。
「ユーディット・シュトルム。君との婚約は、破棄させてもらう」
――ああ、駄目だった。これは夢じゃなかった。過去だ。わたしの、一番覚えていたくない過去が今、目の前に。夢だというのにはあまりにも鮮明に、再生されていた。
「……もう君に付き合うのは、うんざりだ」
眉間を指先で揉みほぐしながら、疲れ切った様子でローレンツ様が呟く。
「もう、君と僕の両親には話を通してある。後はシュトルム嬢、君が頷くだけだ」
過去のわたしは呆然とした様子でローレンツ様を見つめていた。その瞳にはありありと冗談ですよね、とかいてあったし、なによりも縋る色が濃い。
それでも、ローレンツ様のその言葉が冗談でないことぐらい、過去のわたしでも知っていた。ローレンツ様はこういう嘘をつく方ではなかったし、何より、呼び方がいつもと違う。
ユディという、ローレンツ様と家族にだけ許された愛称から、他人行儀なシュトルム嬢、という呼び方に変わっている。それはもう、明確なまでの拒絶だった。
「別に今すぐに、なんて酷なことは言わない。あなただって、少し気持ちの整理をする時間がほしいだろう」
黙ったままのわたしに痺れを切らしたように、ローレンツ様は言葉を紡ぐ。
「気持ちの整理がついたら、シュトルム公爵に伝えてくれたら、それで婚約破棄は成立する。その後のことは、何も心配しなくていい。こちらからの一方的な婚約破棄だ。あなたの新しい嫁ぎ先も、ちゃんとこちらで見繕う」
それは言外に、もうわたしのことは必要としていない、という宣言だった。もっとはっきりというなら、顔すらも見たくない、と言うことだったのだろう。
それでもわたしが頷くのを待ってくれたり、新たに嫁ぎ先を探してくれたり、やんわりと伝えてくれるのはきっと、ローレンツ様の最後の優しさだ。
分かっていたから、わたしは――過去のわたしは、決意を固めたのだ。
今まで知らなかったとはいえ、散々ローレンツ様に迷惑をかけてきたのだ。これ以上もう、迷惑をかけたくない。かけるべきじゃない。
愛しているからこそ、大事だから、大切だからこそ。引き際は弁えてしかるべきだ。
もう婚約破棄は決まったこととはいえ、わたしが頷かない限り婚約破棄は成立しない。つまりわたしが頷かない限り、ローレンツ様は永遠にわたしに縛られたままなのだ。そんなこと、どうして許されよう。
すっと、過去のわたしが姿勢を正して息を吸い込む。つられたように、わたしも背筋を伸ばす。
「いいえ、お待ちいただく必要はございません。婚約破棄、謹んでお受けさせていただきます」
静かな部屋の空気を切り裂くように、過去のわたしの声が響いた。声は僅かに震えている。けれどそれを指摘する人は、この場にはいなかった。
「……そうか。いままで、ありがとう」
ローレンツ様の肩から力が抜ける。安心したようにソファの背もたれに身体を預けていた。
今思えば、おかしなものだと思う。付き合うのはうんざりだと言ったその口で、感謝の言葉を述べるなんて。けれど過去のわたしは当然、そんなことに気付けるだけの余裕はない。自分のことで手いっぱいだったから。
けれど気づいたところで、何も変わらない。ローレンツ様らしいと、そう思うだけだ。
わたしは、改めて思い知らされる。どうあがいても、何年経っても、何があったって彼が――ローレンツ様を、愛しているのだと。
確かに、幸せだったのだ。彼と過ごした穏やかな日々は、いつまでも色あせることない。いつだって鮮明に思い出せる。大切な、宝物だ。
わたしは、そっと目を伏せる。誰も見ていない。夢の中だ。こんなことする意味なんて、何一つない。分かっていても、身体が勝手に動いていた。
スカートの裾を両手で摘み、膝を折る。
どうか彼が、幸せを掴めますように。幸せで、ありますように。わたしは神に祈るように、頭を深く下げた。
*
目を開くと、そこに広がるのは見覚えのある天蓋だった。最初の頃は、随分と違和感があったけれど、今ではもうすっかり見慣れてしまった。そのことに僅かに苦笑いを浮かべながら、そっと身体を起こす。
やっぱり、あれらは全部夢だったらしい。分かっていたことだけれど、びっくりするほど鮮明なだけあって、なんというか、違和感が拭えない。未だに夢の中にいるかのような感覚だ。
深く息を吐きだしながら、視線を彷徨わせる。
ちょうどその時、タイミングよく部屋の扉が開いた。
「まあっ、王妃様……! お目覚めになられたのですね!」
驚いたような声が上がる。同時に慌ただしく侍女が駆け寄ってきた。
「アルマ……わたし、どうしたの? 確か、陛下と共に馬車に乗っていたはずなのだけれど……」
額に手を当てながら、記憶を呼び起こす。最後の記憶はおぼろげだけれど、少なくともこの部屋ではない。ああそうだ、視察に、という話だった。なんて思い出せば、手に持っていた桶をベッドサイドに置いて、あれこれとわたしの世話を焼き始めたアルマに問いかける。
アルマは美しく皺が刻まれた顔を、険しそうにゆがめた。
「覚えておられないのも無理はありません。あんな高熱を出されていたのですからね。まったく、陛下も陛下なら、王妃様も王妃様です」
その言葉は、少し耳に痛かった。ほとんど覚えていないとはいえ、こういうことは初めてではないからだ。これは後で陛下にも怒られるな、と思えばごく自然と口からため息がこぼれ落ちていた。