前編
「ユーディット・シュトルム。君との婚約は、破棄させてもらう」
ヒュッ、と喉が変な音を立てた。息が上手くできない。唇が震える。嘘ですよね、とお聞きしたいのに、喉の奥に言葉が突っかかって出てこない。
「……もう君に付き合うのは、うんざりだ」
ローレンツ様のその言葉を聞いたその瞬間、いびつでも取り繕っていれた表情が、わたしの心が。音を立てて崩れ落ちていった。
*
辺り一面に、薄紫色の菫が咲き誇っている。ちょうど菫の季節なのだろう。薔薇園ならぬ菫園は、シュトルム公爵家の自慢の一つ。
わたしはその菫園が大好きだった。暇さえあれば菫園に入り浸っていて、お父様もお母様も、侍女たちでさえ苦笑いを浮かべていたのをよく覚えている。
けれどそれは、随分と昔の話だ。ローレンツ様と、出逢う前の話。
何よりわたしはもうその菫園を見ることは叶わない身なのに、どうして、と疑問が浮かぶ。
そんなわたしの前を、一人の少女が通り過ぎていった。ふわふわとした淡い金色の髪の、薄水色のドレスを着た女の子。
――わたしは、その少女をよく知っていた。誰よりも、知っている。知らないはずがない。
思わず息を呑んだ。まじまじと少女を見つめてしまう。けれどどれだけ眺めたところで、ドレスとお揃いの色のリボンで髪をハーフアップにした少女は、一向に消えない。それどころか菫園へと歩を進めていく。
つられたようにわたしも少女の後を追った。ふらふらと、どこか覚束ない足取りで。
まさかそんな。いやでも。
そんな疑問の気持ちは、一歩、また一歩、と前へ進むたびに強くなっていく。疑問の答えを知りたい、けれど知りたくない。相反する気持ちを表したかのように、わたしの指先は震えていた。
少女が立ち止まる。わたしは意味もなく草葉の陰に身を潜めた。息を殺して、少し遠いところにいる少女の背を見守る。
「……あなたは、だあれ?」
――そうしてわたしは。その声を、少女の声を聞いて。確信を得た。
「僕はローレンツ。君は?」
その少女が誰か。此処が、何処なのか。何なのかを。
「わたしはユーディットよ。みんなにユディってよばれてるわ」
少女は、わたしだ。ちょうど十年前の、わたし。
そうしてこれは夢だ。まぎれもない、夢。
ただ一つ普通の夢と違うのは、これが真実あった出来事だということ。
わたしと、ローレンツ様の、出会い。
どうして今更、こんな夢を見るのだろう。二人を見ているのが苦しい。目逸らしてしまいたい。なのに、逸らせない。何が起こるか、分かっているから。
此処から先は、誰よりも、何よりも、大切で、大事で。わたしの、一生を決めた出来事が待っているのだ。
未だにこんな幼少期の思い出に囚われているのか、と自分でも笑いそうになる。けれど、どうしたって忘れられないし、手放せなかった。
幼き日のローレンツ様は、優しく笑う。
「そうか。あなたがユーディット嬢だったか」
納得したようなローレンツ様の声に、小さなわたしは不思議そうに首を傾げた。それを見たローレンツ様は、そっと小さなわたしの頭を撫でる。
「僕は今日、あなたに会うためにここに来たんだ」
小さなわたしが、息を呑んだのが分かった。いや、この距離じゃ本当にそうなのか分からない。だから息を呑んだのは小さなわたしではなく、きっと今のわたしだ。
ああ、嫌になる。何度同じ場面を繰り返しても、わたしはまた、こうしてあなたにときめいて、恋に落ちてしまうのだ。
それが、叶わない恋だと知っていても。
「ユーディット・シュトルム嬢」
ローレンツ様が地面に膝をつく。小さなわたしの左手を取って、唇を近づける。けれど触れることはない。ほんの一瞬の動作。瞬きをしている間に、ローレンツ様の唇は手の甲から離れていて、小さなわたしを見上げていた。
「僕と、結婚してください」
心臓が握り潰される。軋むなんて可愛いものじゃない。いっそ心臓を、自分の手で取り出してしまいたいほどに苦しかった。なのに、今のわたしはこんなに苦しんでいるにも関わらず、小さなわたしは状況が飲み込めていないようで。不思議そうに、首を傾げたままだ。
そんな小さなわたしを見たローレンツ様は、少し困った様子で笑う
。
まあ、それもそうだろう。このときローレンツ様は、わたしのお母様かお父様に言われて、ここに来て。そうしてわたしに求婚したのだろうから。
いくら婚約が決まったとはいえ、夢見がちだったわたしにそのまま告げてもきっと受け入れない。だから、一芝居打ってくれ、と言われてそうしたにも関わらず、当のわたしがローレンツ様の言葉をよく理解してないのだから、どうしようもない。
昔からわたしは、ローレンツ様を困らせてばかりだったのだな、と改めて突きつけられたような気がして。あれは、仕方がなかったというよりも予定調和だったのだと思い知らされた。
ふつ、とやるせなさと悲しさが胸の中に渦巻いて、近くにあった植木をくしゃり、と握り潰す。掌に葉が刺さって、痛い。けれど夢の中だからか、痛みに反して血が出ることはなかった。
視線の先のローレンツ様が視線を彷徨わせているのが見えた。この先も、わたしは覚えている。ガンガンと頭の中で何かが悶え苦しむように転がり、警鐘を鳴らしている。
見るのをやめようと顔をそらそうとして、失敗した。駄目だった。洗練されたローレンツ様の動きに、目が奪われる。
近くにあった菫の花を申し訳なさそうに手折り、その花を、小さなわたしの髪に挿してローレンツ様は誰もが見惚れてしまうほどの蕩けるような顔で笑った。
「君の瞳と同じ色だ。……とても、よく似合っている」
*
景色が変わる。目の前の景色はシュトルム公爵家の菫園という閉鎖空間から一転、開放感のある場所だった。
辺り一面に広がる緑に、小高い丘。その丘の上には大木が一本、丘の下の景色を見守るようにどっしりと居を構えている。
この景色にもわたしは見覚えがあった。ローレンツ様と婚約して五年目の、よく晴れたうららかな日差しが眠りすら誘うような、気持ちのいい日のことだ。
わたしがお勉強でいっぱいいっぱいになってしまって、潰れかけてしまっていたとき。お父様とお母様でさえ気づかなかったわたしの不調に、ローレンツ様は真っ先に気づいて助け出してくれた。
きっとその時の光景だと、わたしには半ば確信めいたようなものがあって。だから、わたしの目の前を、人を二人乗せた馬が駆けていく。
つられたように視線を向けると、馬はすぐ近くに止まった。乗っていた二人は案の定ローレンツ様と、過去のわたし。
何を話しているのかまでは聞こえないけれど、二人とも楽しそうに笑っている。
この時のはわたしは何も疑うことなんてなくて、幸せそうだった。
わたしの足はごく自然と、二人に向いていた。以前よりもずっと近いのに、わたしの姿は当たり前のように二人には見えていないし、会話も聞こえない。
おかしいな。わたしは首を傾げた。一番初めの夢は、遠くとも声まで鮮明に聞こえていたのに。
夢、だからだろうか。わたしが覚えていることだけ、再生されるのかもしれない。
たしかに出会った時のことに比べて、今回のことで覚えていることは少ない。会話の内容だっておぼろげだ。それでも、全く覚えていないわけじゃないのに。
わたしがそんな風に悩んでいる間に、二人は馬を引いて丘の上の大木を目指して歩いていく。
ローレンツ様は馬を、わたしは風に飛ばされないように帽子を片手で押さえていた。二人とも足元なんて気にした様子なく、お互いを見つめあっていて。見ているこっちが幸せさを覚えるくらいだ。
――どうして。わたしの中でそんな疑問が渦巻く。
その疑問を振り払うようにわたしは首を左右に振った。そんなもの、考えるだけ無駄なことだと分かっていたから。
少しずつ距離が開いていく二人を追うように、わたしも歩き始めた。短く切り揃えられた草は、手入れが行き届いている証拠だ。けれど、踏みしめる時はその感覚が必ずあるもので。だというのに今のわたしには、それがない。
草を踏む感覚がないということは、これが夢だということをわたしに突きつけていた。今更すぎて、何か思うことなんてなかったけれど。一抹の虚しさのようなものが、胸中をよぎった。
丘を登っている最中、過去のわたしが草に足を取られてこけそうになった。いち早くそれに気づいたローレンツ様が過去のわたしのお腹に手を回して、抱き止める。
恥ずかしさと申し訳なさの混じった表情になったわたしに、ローレンツ様は口元を穏やかに緩めて笑う。
二人が何かを話しているのは、口の動きで分かった。けれど、やっぱり音は聞こえてこない。
過去のわたしが、頬を真っ赤に染めた。多分照れるようなことを、ローレンツ様に言われたのだろう。ぼんやりと眺めていれば、少し怒った様子で過去のわたしが一人先に進んで行く。ローレンツ様はぽりぽりと頬を掻いて、過去のわたしの後を追った。けれどその顔は仕方ないなとでも言うような、過去のわたしを甘やかしている顔で。
また、疑問が浮かんでは消えた。
二人からだいぶ遅れて、わたしも再び後を追う。小さなシルエットが大きくなると、どうやらもう二人は仲直りしたようだった。と言うと、だいぶ語弊がありそうな気もする。けれど他にいい言葉も思いつかないし、まあどうせ誰かに説明するわけでもないのだから、とわたしは考えるのをやめた。
大木の側にある柵に馬を繋いだ二人は、何の戸惑いもなく大木の根元の草の上に座る。
爽やかな風が吹いて、木の葉を揺らした。日差しが枝葉の隙間から差し込み、ほんのりと二人を照らす。
過去のわたしとローレンツ様は暖かな日の光に包まれて、穏やかに、幸せそうに、笑っていた。
*
また景色が変わる。これで三度目だ。一体何度、変われば気が済むのだろう。夢のはずなのに、あまり夢っぽくなくて少し、疲れてしまった。
そんな疲弊するわたしの視界に映るのは、また見慣れた光景だった。
華美ではないけれど品のいい調度品と絨毯で彩られたこの場所は、何を隠そうシュトルム公爵家の屋敷の玄関。けれど、わたしの最後の記憶にある玄関とは調度品の置き場所とか、種類が違う。
これはいつの、なんの過去なのだろう。それほど頻繁に変わる訳ではないけれど、流石に過去全ての配置を覚えているわけじゃない。他にこれといって目立ったところがあるわけでもなく、玄関なんて何度だって見ているものだから、図りかねた。
まあけれど、悩んだところで答えが出るわけじゃない。ふー、と気持ちを落ち着かせるように息を吐いて、ただ黙って先行きを見守る。
暫くすると、執事と侍女たちがバタバタと慌ただしく玄関を行ったり来たりし出した。これだけの人員が割かれるということは、それなりの人物がこの家に来るのだろう。多分ローレンツ様ではないかとわたしは予想を立てた。
その予想が間違っていなかったと知る事になったのは、それからだいぶ経ってからだった。
綺麗に着飾った過去のわたしが、慌てて駆け下りてくる。過去の、とは言ったけれど年齢的に今とそれほど大差ないのではないだろうか。薄水色のあまり装飾のないドレスをはためかせる過去のわたしを見て、なんとなく覚えがある。
少し考えて、思い出した。これは、この日は。わたしの十六の誕生日だ。
どくん、と心臓が跳ねた。
過去のわたしが扉の前でそわそわと、落ち着きのない様子でローレンツ様の訪れを待っている。
その期待に応えるように、少しもしないうちにゆっくりと扉が開かれた。その先には、いつものように穏やかに、けれど少し照れくさそうに笑うローレンツ様が立っている。両手いっぱいに薔薇の花束を抱えて。
「誕生日おめでとう、ユディ」
ぽろ、とわたしの瞳から涙がこぼれ落ちた。過去のわたしは驚いて目を瞬かせた後、破顔する。これ以上にないほどに幸せだと言わんばかりの笑顔だった。
「ありがとうございます。わたしは、世界でいちばんの幸せ者です」
感極まりすぎて、過去のわたしの声は震えている。今にも泣きそうだけれど、必死に我慢しているようだった。ローレンツ様から貰った花束を、くしゃくしゃにしてしまわないように大事に、大事に抱き締めながら。
周りを取り囲んでいる侍女たちも、つられたようにハンカチで目元を押さえている。貰い泣きをしたのだろう。そんなシュトルム公爵家の面々を見てローレンツ様は少し困ったような顔をしていた。けれど、その中には嬉しさが混じっていて。
きゅっと、わたしの心臓が音を立てて軋む。
どうして、そんな顔をするの。まるで今この時のわたしや、ローレンツ様と出会ってからのわたしが、幸せだと感じていたみたいに。ローレンツ様も幸せだと感じているような顔をして、どうして笑うの。
わたしにはもう、訳が分からなかった。