急転直下
和真はアイの体に『手当』の技能を発動する。
優しく青白い光がスライムの体に染み込んでいき、ゆっくりとだが損傷が回復していく。
それとは反対に和真は急速に体力を失い始めていた。
「……和真殿、回復後に反撃される可能性もあるのでござるよ?」
「……そうだな。でも、どのみちリスクは負う必要があるんだよ」
奥菜の考えは至極当然なものだろう。リスクを考えればアイを殺したほうが安全なのは間違いない。しかし、状況はそう単純ではないのだ。
アイの発言を思い出せばわかる。この戦いはガイアに監視されているのだ。そしてこのダンジョンからは出られないとも断言していた。
これまでの流れで、そんな嘘をつく意味はなく真実と捉えて問題ないはず。
そうでなければ何度も母親に助けを願う必要がないのだ。
それを前提として考えた場合、ここでアイを殺したところで状況が不利なことには変わりがない。ならばどうするか。
和真は考えた。アイを懐柔できれば脱出の可能性が高まるのに加えて、ガイアやダンジョンの重要な情報なども同時に手に入れることができるのだ。
運が良ければアイが戦力になる可能性すら生まれる。
もちろんそれは希望的観測だ。
しかし、アイを殺せば脱出が可能なのかと問われればNOと言わざるを得ない。
リスクを恐れるあまりにメリットを考えないのでは、生き残れる可能性を自ら手放すことにしかならない。
そしてなによりも、和真という一人の子供だからこそアイの気持ちが理解できた。
死の淵に立ち、その時になって母に裏切られて捨てられたという事実を突きつけられる。
もし、それが自分であったなら耐えられる自身は和真にはなかった。
孤独に過ごした引きこもり時代、それを支えてくれたのは息子を愛する母の情だ。
その愛情を受けられずに助けを懇願する相手を和真は無慈悲に殺せない。
そこまで心は鬼にはできない。
その思いと打算、二つが合わさりアイを助けるという選択を和真は選び取った。
彼が歩んだ人生だからこその選択だ。
奥菜はそれ以上口を挟まなかったが、静かに刀を握ってアイのそばで待機している。
それもまた、奥菜の考えて選んだ結果。
万が一、アイが不審な動きを見せれば奥菜は容赦なくその刀を振り下ろすだろう。
『まぁ。リスクの前に地獄が待ってるかもですけどね?』
アイの治療が進む中、カオスから不吉な言葉が投げられた。
その直後、疲れから顔を俯かせていた和真に悍ましい寒気が走る。
心の奥底から湧き上がるような悪寒。それが全身を駆け巡ったのだ。
「ふふふ。いい戦いだったわよ……」
突如、惜しみない拍手と一緒に、聞き覚えのある女性の声が反響して耳に届く。アイから目を移して呆然とする奥菜、何事かと声の出どころを見上げた和真。
そこには、宙に浮きながらゆっくりと降りてくる真紅の髪をなびかせた女神の姿があった。
「……あぁ……お母、様……」
アイの声に戸惑いが宿る。
女神を見たアイは一瞬にして思考が凍りつき、先程までとは違う震えが体を襲った。
そう。今、地底に舞い降りた女神こそが彼女の母、全てのダンジョンマスターを生み出した存在。
女神ガイアの降臨であった。
「……菜々子……なぜココに?」
奥菜が喘ぐように女神の名前を口に出した。
呼ばれた彼女は艶然とした笑みを奥菜に向けて、その美しい金色の瞳を輝かせた。天より地底に舞い降りる彼女の神々しい姿はまさに女神の名に相応しい。
和真は嫌な確信に冷や汗を流しながら、アイを撫でる手を強ばらせる。
そして、女神が滔々と話し出した。
「……ずっと観察させてもらったけれど、ここまで追い詰められてカオスが出ないということは本当にいないようね。飲み会の時にはいたのかしら、それとも本当に大道芸? どちらにしても貴方にカオスがいないとわかった今、もう生かしておく必要はないわ。余計なことを言いふらす前に、その子と一緒に転生させてあげる……」
ゴミを見るような目のまま艶っぽく笑う菜々子。
その口上は聞きたくなかった事実を含んだ毒であった。
「……何を言ってるのでござるか? 菜々子、説明するでござる!」
混乱しているのか語調が強くなる奥菜、その言葉を受けて菜々子は何が面白いのかクスクスと嘲弄まじりに返答する。
「ふふふ、説明? 貴方に説明しても理解できないでしょう、蚊帳の外ですもの。それと、この体の持ち主は確かに菜々子という貴方のお友達だけど、私は貴方のお友達ではないの、だから気安くされても困るわ。短い付き合いだったけど、さよならね。せめてその魂は私の下僕として転生させてあげる……」
菜々子の口から吐き出される淡々とした言葉。
すでに殺すことは決めているらしく、有無を言わせない圧力を感じる。
奥菜は愕然とした表情のまま佇み、その瞳は動揺で揺れていた。
「……ガイア、なのか……なぜ、こんなことを……」
和真が残り僅かな体力でガイアに質問を投げかけた。
「全ては悪神カオスを封印するためよ。不意打ちで肉体の封印には成功したけど、魂を逃してしまったのは痛手だったわ。そのせいで、この世界に攻め込む必要が出てしまって被害も増えたのよ。恨むならカオスを恨みなさい。もっとも、貴方には関係のないことかしら。事情も知らないようですし、特性を使って衰弱までしている。今更カオスが衰弱した肉体を操っても意味はないですし、本当に無関係だったようね。勘が外れて残念だわ」
ガイアから語られ始めた世界に起こった事実の断片。
その話に息を飲み、思わず呼吸を忘れてしまう和真。
徐々に力は弱まり、意識を手放しそうになりながらも必死に堪えて打開策を考える。
しかし、この状況で未知数のガイアが現れてはどうしようもない。
戦えるとしたら現状では奥菜だけだ。
だが、たった一人で格上と戦うなど無理な話だ、とてもじゃないが勝算はない。
ダンジョンマスターならいざ知らず、そもそも相手は女神ガイアなのだ。
人の身で神を殺すことが可能なのか、それは対峙している和真たちが一番理解している。
女神から迸る殺気と力。目に見えない不可視の奔流を目に映るほど濃厚に感じていた。
格が違う、存在としての次元が違う。
神は殺せない。人の身では不可能だ。
それがガイアと対峙している和真と奥菜の正直な感想であった。
「お母様、なぜ……なぜ助けてくれなかったのですか?」
ぷるぷると怯えながらガイアの顔色を窺い質問するアイ。
それに対して冷酷な眼差しでアイを一瞥したガイアは語る。
「子が親のために犠牲になるのは当然でしょう? もっとも、最後に裏切り役目を果たせなかった出来損ないを子供とは認めないけど」
その残酷な本音にぶるりとアイは震えて縮こまる。
さらにガイアは続けた。
「口惜しいけど、魂だけでもカオスは強力な存在。確実に封印するためにも誰かが犠牲となりカオスを引きずり出すしかないのよ。私が本気を出せば引きずり出すことも封印も可能だけれど、その瞬間にウーラノスに気づかれてしまうわ。失敗は許されないの。だからカオスがいるという確実な証拠がないと本体ではこれないのよ。……どう? これで説明は終わりよ。最期に満足できたかしら」
その言葉が真実かどうかはわからない。それでもガイアの語った事情は身勝手なものであり、目的のためならば子供を犠牲にする考えなのが和真には伝わった。
それは彼にとって、母を尊敬する一人の子供として許せない悪徳であった。
「そこまで……カオス、が……憎いのか?」
気力を振り絞り質問を続ける和真。
しかし女神の機嫌が変わったようで、その質問に答えは返ってこなかった。
「問答は終わりよ。3人仲良く死を迎え入れなさい。その魂を私の物として、再び新しい命を与えてあげるわ……。それが神の愛であり慈悲であると知りなさい」
ガイアの肉体に強大な力が迸る。
和真たちでは、いや、人間では触れただけでも木っ端となるだろう。
それほどの圧倒的なエネルギーが漏れ始めたのだ。
それでもガイアが全力を出しているようには見えない、大人が子供を撫でるときのような、そんな手加減をして愛でるような何気ない行為。
人が柔らかい小動物を優しく持ち上げるような配慮。
そんな意思がガイアから感じられたのだ、それにより避けられない死を理解する。
力の次元が違うのだ。ガイアが本体でなくとも人間との間に絶対的な壁がある。
人が神に逆らうことなどできない、そう確信させられたのだ。
相手は世界を創り出す超常の存在、その事実を和真たちは粟立つ肌で悟る。眼前にある絶望を前に始めて理解できたのだ。
自分たちの旅路はここで終わるのだと。
「……こ、こまで……か」
「無念で、ござるな……」
「……おかあ……」
矛先が和真たちに向けられて、それぞれが諦念を抱いて声を漏らした。
一人は命を諦めて、一人は自身の無力を嘆いて、一人は母との決別に涙して。
等しく命の終わりが訪れるように思えた。
しかし、まだ神は見放してはいなかった。
「ガイア、そこまでだ……」
突如、ガイアの頭上より威厳に満ちた男の声が体の芯まで響いてくる。
「……っ!? 何故、貴方がいるの……」
見上げたガイアは狼狽して男に尋ねた。予想外の出来事だったようで、力が霧散して先程までの戦意が消えている。
「最初からだ。お前がこちらの情報を盗むために冒険者の何人かに憑依しているのは把握していた。わざと残していたんだよ、お前の魂の適格者を特定した上でな」
顎髭を綺麗に整えて清潔感と威圧感を共存させた男の容姿は、和真たちに圧倒的な存在感を放っているように錯覚させてしまう。
女神ガイアとは違う対極の力。
ガイアが美と慈悲と力の女神であるならば、男は厳かであり雄大さを持った天上人と例えようか。底知れない力に気圧されて、和真たちは二人の会話を黙って聞く以外の選択肢は取れなかった。大量の冷や汗が汚れた服をさらに湿らせていく。
「……そう、してやられた訳ね。屈辱だわ」
ガイアは顔を歪めて悔しさを表わにする。
「苦肉の策だ。お前がこの様な強行手段で攻めてくるとは思わずに後手に回った結果のな。お陰で我が羊たちは多くの犠牲を出した。この星はご覧の有様だ」
男もまた顔を歪めて感情を表に出した。二人の会話を理解しようと精一杯な和真は疲労から意識を失い始めていた、そして男は続ける。
「我は生き残った優秀な者たちに力を与えて一つの罠を張った。お前がカオスの魂の居場所を知る我の動向を探ると予想した上でな。そのための冒険者組合だ」
「どういう事?」
ガイアは純粋な疑問を男にぶつけた。
「簡単なことだ。冒険者組合とはお前の力に対抗しようと我が力を与えて生み出した存在なのだ、当然お前は接触を試みるだろう、我に気取られないようにな。だからこそ組織に所属するときに簡単なテストを行った。『ガイアの憑依適格者』かどうかのな……」
「――っ! だから私が冒険者に乗り移った後を最初から監視できたのね。最初から当たりが付いているのなら難しいことじゃない。そういう訳ね……」
「そういう事だ」
語られ始めたのは冒険者組合ができた理由であった。
それはガイアを炙り出す罠だったのだ。
カオスの魂を探すため、それを知っている男から情報を盗みたいガイアは当然行動を起こす。
しかし、ダンジョンマスターやモンスターでは簡単に情報は盗めない。男が背後に付いている冒険者組合は甘くないのだ。だからこそ憑依体を使い『人間の冒険者』として情報を集めようとしていた。
しかし、男はそれを読んでいた。
男に感づかれないように冒険者組合を経由して情報を探りたいガイアが、必ず適格者を探すと考えてテストによる特定を行っていたのだ。
一般人の適格者に憑依したところで冒険者組合には入れない。それこそ、テストでガイアの憑依体だと看破されて終わってしまう話なのだ。
ガイアも憑依した後で組合本部に行くのは避けるため、冒険者になった後の者に対象を絞った。その結果が菜々子の乗っ取りであったのだ。
故に男は知っていた。
和真はカオスの憑依適格者であり、カオスがその中にいることも。
そしてガイアが接触して嗅ぎ回っていることも、全てを最初から把握していたのだ。
ガイアの本体がいる場所を特定するために。
「……長いようで短かったな。全力では無いにしろ、お前が本体から力を引き出したお陰で場所がわかったぞ。これで、この無意味な戦いも終わる。お前の居場所がわかった以上、我が直接赴こう。迂闊だったな、ガイアよ……」
勝利を確信したのか、男は微笑を見せた。
「……くっ……ウーラノス、私は貴方のために!」
一転して劣勢に立たされたガイアは苦渋に満ちた顔をしていた。
「余計なお世話なのだよ……いつまでも母を気取るな」
それは、神々の争い。
その剣幕に気圧された奥菜は呆然と佇むことしかできない。
すでに意識を手放した和真はアイの横に倒れていた。
アイも一命はとりとめたようで、静かに二柱の言葉に耳を傾けている。
完全に蚊帳の外であった。
神々の争いに付き合わされる無力な存在。
そんなちっぽけな存在にできることは見守ることくらいだろう。
奥菜は呼吸すら忘れ、黙って二柱の会話を聞くだけだ。
「……引かせてもらうわ。貴方と真正面からぶつかるのは遠慮したいもの」
「……逃げられるとでも?」
ガイアは逃走の意思を明確に示して構えを取る。
ウーラノスもまた、憑依体であろうとも逃がすつもりはないようだ。
逃げるガイアを追う前に、男神は傷ついた和真たちを睥睨して言葉をかけた。
「……よくやった。お前達の働きによりガイアの居所がわかり、このダンジョンも手中に収められる。あとで労うとしよう。事情を知る配下の者もすぐに来よう、お前達はそこで休んでいろ」
先ほどと関わり、優しい声音で語りかけるウーラノスの言葉を聞き届けて、奥菜も緊張が解けたのか大きな安堵のため息を吐いた。
その直後、ダンジョンを振動させるような速度で目の前から消えるガイアとウーラノス。
本当に少しの出来事であったが、神々の事情に触れてしまった奥菜たちの心労は途方もないものだった。
その後すぐ、ウーラノスの言葉通りに配下の冒険者たちが救助に現れる。
事情を把握している冒険者たちはアイも含めて3人を無事に保護した。
その時の余談だが、奥菜は両手を広げて天を仰いで寝転がり、盛大な愚痴を零した「今日は、本当に疲れたでござるよ……もうダメでござる」
それから詳しい事情聴取や今後の相談なども行い、瞬く間に二週間の時が過ぎ去った。
天高くに太陽が登っている昼時、今回の事件を知る関係者たちがサンロードダンジョン内で一堂に会する運びとなる。
まずは和真、それから菜々子を除く弓剣隊と牢屋から救助された槍隊三名。
そして、元ダンジョンマスターでスライム形態のアイと冒険者組合長を務める鈴木宏太という大物。それらを交えて人類の今後に関わる重要な話し合いを始めるのだ。




