初めての親孝行
突然の出来事に呆然としていた和真。少しずつだが正気を取り戻したのか、先ほどの出来事を思い返す。
(……最後の「健闘を祈ります()」に人を馬鹿にするような悪意を感じたぞ)
しかし、その言葉に反応する余裕はなかった。いや、そんなことよりも考えるべき情報が多すぎて思い返すと混乱が増してくる。一旦思考を打ち切り、冷静さを取り戻すことを優先させる和真。
何気なく、彼は未確認生命体、いや、モンスターの死骸に目をやる。
頭蓋を潰されて動かなくなったオオネズミ。頭部より溢れる赤い血潮。
ふと脳裏に過ぎる思い。
(食えるのかな?)
その思いは脳にじわじわと沁みていった。
(いやいやいや、何を考えているんだ。それどころじゃないだろ! 今は技能だのステータスだのの情報について思考するべきだろう。そもそも、こんな気味の悪い生物なんて食いたくない)
ぐぅぅ~。
気持ちと生理現象は別であり、赤子のように食事を欲するお腹が泣き声を上げる。視線を自身の腹にやり、痩せてしまったお腹を撫で回した。理性を働かせて欲望に抗おうとする、そんな時に限ってお腹は鳴るものだ。
それもそのはず、ここ2ヵ月は満足な食事を取れずに栄養不足が深刻なのだ。
僅かな救援物資と潰れた商店での食料確保競争で勝ち取った備蓄、それも尽きかけていた。
自衛隊も消防隊も警察官も対処に追われてここにはおらず、配給も少ない不安との戦い。
そんな中、母に優先して食事を取らせてきた和真にとって、食料とは喉から手が出るほど欲しい天の恵なのだ。それが混乱の中にあろうとも、対象が醜い化け物であろうとも、食欲が無意識に顔を覗かせるのは仕方がないことだろう。
「だめだ。腹が減って、まともに考えられない……」
オオネズミ、つまり動物。赤い血。肉。肉だから食べられる? そんな考えが和真を侵食し始める。
「……」
肉、肉、肉、目の前に死にたてほやほやの肉がある。
血抜きをして内蔵を取ればいけるんじゃないか? 捌いたことはないけれど、この空腹を解消できるなら覚悟を決めてやるべきなのでは? そんな思考の迷宮に囚われ始めていた。
(毒だったらどうする。こんな気持ちの悪い生物、絶対まずいに決まってる)
空腹からくる思考を振り払おうと和真は抗った。懸命に抗ったのだ。――――そして。
(やっぱダメ元で食ってみるか!)
空腹に敗北した。
◇
周囲を見渡し誰にも見られていないことを確認する。
それから手頃な木に縄跳びで縛り、逆さに吊るして血抜きを行い腹を割く。
自衛のために所持していた包丁で恐る恐る腹を割いていく体験。
魚の腹くらいしか割いたことのない和真にとって、大型の動物であり正体不明のモンスターを解体することは勇気のいる行為であった。普段であれば生理的に無理だと逃げ出していただろう。
それでも和真は浅い知識で解体をすすめる。全ては空腹を満たす食料になり得る可能性のためだ。
飢餓は理性を凌駕する凶悪な欲望なのだ。和真は31年の人生において初めてそれを理解する。
ここまで強烈な飢餓を体験したことはない。
働かずとも母によって用意される食事。
生きていくのに十分な環境を保った自室。
有り余る暇を紛らわせられるパソコンや書籍などの娯楽。
恵まれていたのだ。
恵まれすぎていた、故に気付けなかった。
それらは何一つとして自分自身が手に入れたものではないと。
全ては先人の努力による恩恵によってもたらされた空間であったのだと。
今の和真には、それが痛いほど理解できた。頭で理解したつもりになるのではなく、体が理解したのだ。
かつての自分はぬるま湯を高温だと思ってしまうほどの弱者であったのだ、と。
和真は顔を歪めながら解体をすすめる。
泥水を啜ってでもこの空腹を解消できるのであれば喜んで啜るだろう。
割いた腹から慎重に内蔵を取り出す作業。その醜悪な内蔵の臭いに耐えながら、ぎこちない手つきで和真は食料を得ようと懸命であった。空っぽになったモンスターの腹を確認し、次は皮を剥げばいいのかと手を動かす。
「……んん? 手で剥けるな。包丁を使う必要がないな」
それは和真にとって幸いだった。
包丁で皮を剥ぐ経験などないため、かなりの時間を浪費すると考えていたからだ。
このオオネズミは毛が生えておらず、皮が薄くて剥きやすいのが特徴のようだ。
手間が省けてホッと息を吐く。
「これなら、もうすぐ終わるな」
解体を始めて小一時間。ようやく皮も剥ぎ終わり、おおまかだが部位ごとに肉を分け終えた。
ただでさえ体力が落ちているのにこの重労働、かなり堪えたのか和真は疲れて腰を落とす。
「内蔵は埋めて、肉はビニールに包んで隠したほうがいいかな」
「化物を食べるため解体しました」なんて周りに言えるはずもなく、肉は隠し持つことにする。
まずは母のところへ行き、自身の無事を報告しなくてはならない。幸いにもオオネズミは一匹しか来なかったようで、解体中も辺りを警戒してはいたが追加が来る様子はなかった。それでも確実に安全とは言えないが、そもそも日本に安全な場所などもう存在しないだろう。
それに、オオネズミであれば対処は可能だとわかったために気が緩んだのも大きかった。
和真は一先ず肉をビニールで包み、花壇の低木の下に隠して母の下へと戻った。
「和真! あぁ……よかった、無事だったのね。よかった」
母は和真を確認すると、疲れた顔で泣き始めた。
それはそうだろう、あれから1時間も息子が帰ってこなかったのだ。彼女は息子が死んだかもしれないと恐怖で震えていたのだから。そして、周りの避難者たちは化物が一向に来ないため緊張を解き始めていた。
緊張を維持して警戒し続けることは、疲れきった老人たちには無理な話なのだろう。
「ごめん。追い払うのに時間がかかって。なんとか一匹駆除できたから、しばらくは大丈夫だと思う。たぶん。だから泣かないでくれよ」
母の背中を優しく撫で、安心させるように和真はそばに寄り添った。
しばらく、母と一緒に腰を下ろして水分を補給しながらカンパンを二人で齧る。
「母さん、ちょっと食料を探してくるね。もしかしたら肉が食えるかもしれないから、期待はしないで待っててよ」
「お肉? そんなの配給でもらえないわよ。どうするつもりなの?」
「いや、ちょっとね。危ない所には行かないから少し待っててよ。運が良ければ食料が手に入るかもだから。まぁ、早くても明日じゃないと食べられないと思うけどね」
「……そう。早く戻ってくるのよ」
不安そうな顔でリュックを背負った息子を見送る母。
それとは対照的に、和真は期待に満ちた逸る気持ちを抑えられずに解体した肉の下へと駆け足で向かった。もし、食べても問題がなければ大発見だ。これで食糧問題が解決できるかもしれない。そんな安易な期待を持つのも仕方がない。彼のお腹はずっと泣き続けているのだから……。
「よかった、盗られてないな」
自身の獲物の無事を確認する和真。
自然と笑みがこぼれる。少し前までは気持ちの悪い生物など食べるつもりはなかったのに、今では完全に食料にしか見えなくなっていた。限界に達した空腹と解体の経験が、彼の価値観を急速に変え始めていたのだ。
「カセットコンロで焼いてみよう。食べて数時間様子を見て無事だったら毒はないはずだ」
リュックを下ろし、地震大国の備えとして準備してあったカセットコンロを取り出す。
家が倒壊する前に避難用グッズを持ち出せたのは幸運であった。最低限の道具があれば、食材さえあればなんとか料理できる。備えあれば憂いなし、まさに言葉通りであった。
辺りに人がいないことを確認し、木に隠れてこそこそと調理をはじめる。
解体した肉を食べやすい大きさに切り分けて、小型のフライパンをコンロに乗せて焼き始める。
1分もしないうちに香ばしい肉の焼ける匂いが鼻から脳みそを刺激する。ヨダレが止まらない。肉の焼ける音だけでも胃袋が刺激され早くよこせと主張する。我慢だ。空腹を必死に抑え付け火を通す。生焼けは怖いので念入りに弱火で焼いていく。
じゅう じゅう じゅう
肉が焼けて滴った肉汁が蒸発していく香ばしい匂いと音。
その匂いが、その音が、その色が、和真の食欲を最大限に高める最高の食材である。
肉が焼きあがるまでの時間。それは、今までに体験したことがないほど長く感じた。拷問の時間でもある。そして、いよいよだ。塩を軽く振り、焼きたての肉を迷わず口に放り込む。
「……美味い」
噛むごとに肉の旨みが舌の上で暴れる。脂の甘さが心地よく、箸が止まらない。
美味い、それ以外の表現が思いつかない。何枚でも食べられる。止まらない。
焼きあがった肉を次々と食べていく和真。最早飲み込む勢いで肉を食っていく。
空腹は最高のスパイスと言うが、間違いないだろう。
本来なら胸焼けするであろう脂身も、ジュースを飲むように胃に流し込む。
至福。圧倒的な至福の時間。今まで食べたどんな料理よりも美味いと断言できる。
和真は生まれてきた幸せを11年ぶりに思い出したのだ。それほどの衝撃であった。
そして、胃を肉で満たして幸福に浸り、ようやく彼は正気に戻る。
「さっきの情報や女性の声はなんだったんだろう……」
ようやく重要なことを思い出し、先ほどの出来事を考察し始める和真。
様々な経験をした一日は、こうして過ぎていったのである。
◇
翌日。
「おはよう」
「おはよう、和真」
寝覚めのいい日だった。昨日は久々に栄養価の高い食事を取ったからだろうか。
腹痛などの症状も出ず、それどころか力が漲るような感覚さえ覚える食材だった。
空腹に負けてモンスターの肉を食べたが、その判断は結果的には正しかったようだ。
和真は安堵のため息を吐き、天の恵みに感謝した。これで生き延びられる、と。
その後、肉のことを母に説明すると気持ち悪がられた。それが正常な人間の反応だったのかもしれない。
「あんた正気なの!? お腹壊さない? 私は嫌よ。そんな得体の知れないお肉なんか」
「いや、本当に美味しいんだって! 体調も良いし毒はないはずだよ。母さんも食べてみなよ」
「No,thank you.」
「なんで英語で断るの!?」
説得も虚しく、母はモンスター肉を食べようとはしなかった。
だが、今まで少量とは言え和真が食べていた配給分を母に渡すことが可能になった。和真はモンスターの肉を食べて、母は配給食を二人分食べる。そのため、母の栄養状態を徐々に回復させることに成功した。
思えば、これが親孝行の第一歩だったのかもしれない。和真にとっては、とても偉大な一歩だった。




