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九条さんと硝子の世界  作者: 奥川 歩
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プロローグ

 ―あなたなんて産まれてこなければ―

包丁を握った彼女は、母はそう吐き捨てた。

髪を乱し、涙で濡れた顔を俯かせながら。

そして、ごめんなさいと何度も連呼しながら急に歯車の止まった機械の様に動かなくなった。

泣きながら母の名を呼んだり肩を揺すったりしても彼女は微動だにせず、膝と手を付き表情も見えないせいで余計に恐怖と不安が募り、状況に耐えられずもう一度母の名を呼ぼうとしたその瞬間、痛いくらいに抱きしめられた。

しばらく見動きが取れなかったがゆっくりと身体を離されまたごめんなさいと、とても優しい口調でそう僕に呟いた。

いつもの優しい母に戻ってくれたと安堵した瞬間、彼女は包丁を握ったままの腕を大きく振りかぶり僕の胸に突き立てた。

一瞬何が起きたのか理解できなかったが冷たく、鈍い激痛が胸から血と共に溢れ出したところでようやく理解した。

けれど悲しみは無かった。母が死んで欲しいと、消えて欲しいと望むのならそれに応えたかった。

目も耳も霞み溶けるような意識の中で視線が捉えたのは、僕の胸から抜き出した包丁で自身の喉に音を立てながら深く突き立てる赤く染まった母だった。



 しばらく見ていなかった昔の夢にうなされていた様で激しい頭痛と共に目を覚ますと全身から滝のように汗が流れていた。

彼、九条深月くじょうみつきは汗で張り付いた髪をかき上げてぐっしょりと濡れた服を脱ぎ捨て直ぐにシャワーを浴びにバスルームへと向った。


 彼は熱い湯で身体を流しながら胸の古傷を指でなぞった。

痛む筈はないのだが、とうの昔に完治はしていて残っているのはこの傷痕だけのはずなのに頭痛と連動する様にチクリ、ジクリと痛む。

浅く溜息を付き、湯を止めてその場を後にした。


 シャワーを浴び終えた後は細身のジーンズとワイシャツに袖を通し、鎮痛剤を水で流し込んでからマキネッタで珈琲を淹れ始めた。

少し時間がかかるため先程まで自分がうなされていたカウチまで行き腰を落とした。

 数秒程目を閉じて座り込み目の前のテーブルに置いてあるスイス産の赤いパッケージデザインのタバコを箱から一本抜き取り、使い古されたジッポで火を付け先程のシャワー中とは対照的な深い溜息を煙と共に吐き出した。

根本が燃え尽きるまで吸い続け、指に熱さを感じると灰皿にそれを乱雑に押し付けそろそろ出来上がるであろうマキネッタで淹れている珈琲のコンロの火を消しに気怠い腰を上げた。


 出来上がった珈琲を小さな白いカップに注ぎ込み、一口飲んでからまたカウチまで移動してから半分ほど珈琲を飲みテーブル上にそれを置いた。

幻聴の様に、夢に見た母の声が蘇る。

ごめんなさいと何度も呟き泣いていた彼女はきっとこの先も自分の中からは消えないだろうと思案にふけり、再びタバコに火を付け吐き出した煙が消えるまで見つめていた。

煙は天上のシーリングファンに掻き消され、四方八方に霧散していく。

時折音を立てるそのプロペラは今にも壊れて落ちてきそうであるが、それをいってしまったらこの部屋自体そうだろ。

ここは元々、潰れて買い手のつかない古い木造建築の小さなバーをほぼ改装無しにバスルームだけ設営して住んでいる為に、あちらこちら傷んでいる。

一度は引越も考えはしたが書物が多すぎる上に若干人間嫌いの為、見ず知らずの業者に大切な本を預けたり、この場所に踏み入られたくないのでその案は瞬間的に頭から抹消された。

 そういった事を頼めそうな腐れ縁の知り合いが一人だけいるが彼と二人がかりでも運べそうなものではない。

というよりも、借りを作ると後々面倒になるのでどのみち却下だ。

 

 どうでもいい事で考えに耽っていると玄関口の方から聞き覚えのある腐れ縁の良く通る声がノックと共に部屋に響いた。

「おい深月ぃ。俺だ」

ドンドンドン、と勢い良く叩かれるドアが壊れるのではないかと哀れに思い腰を上げた。

軋む音を立てるドアを開けるとそこに立っていたのは見知った筋骨隆々の大男と知らない少女であった。

「よう。相っ変わらず怠そうだなお前。飯ぃ食ってんのか?」

髪は短く刈り揃え、無精髭を生やすこの大男、赤井尊あかいたけるはさも我が家の様に部屋に入り込みテーブルを挟んだカウチの反対側にドスンと身を沈めた後、思い出した様に邪魔ぁするぜと言い放った。

部屋に入るまえに言えと口に出かけたがいつもの事なので諦めた。

「で、今日は何の様ですか赤井さん?後あんたが連れてきたこの子は?」

自分の事を言われたのだと立ち尽くしていたミディアムショートヘアの少女は、はっと尻を叩かれた動物の様に口を開いた。

「はじめましてっ!さ、桜庭咲良さくらばさくらです。花が咲くに良いで咲良です!」

そう自己紹介を始めたこの少女は礼儀正しくお辞儀をした。

いや、そうじゃない。いったい彼女が何故赤井とこんなところにやってきたのか分からないと説明を求めようとした時にまたもや赤井は思い出した様に口を開いた。

「あぁ、桜庭は新米で俺の部下だ。二人共そんな所で突っ立ってないで早くこっち来いよ。」

まったく何様だろうかこの男はと若干苛つきつつも玄関前で立ちっぱなしの

この少女、いや刑事である赤井の部下ならば成人は越しているであろう“女性”。桜庭にどうぞと手振りで案内した。

「お邪魔します!」

と、先程の自己紹介の様にお辞儀してから部屋に入っていき周りをキョロキョロとまるで迷い猫の様に辺りを見渡した後、赤井の座る隣に腰掛けた。

「それで要件は?彼女…桜庭さんでしたっけ?部下の方とここ来たって事は物見遊山じゃないんしょう?」

「んなもん決まってんじゃねーか。」

赤井は一瞬口をニイっと歪ませたが瞬間的に精悍な顔付きになりこう続けた。

「協力要請だ。探偵ホームズさんよ。」






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