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亡国より愛をこめて

作者: 久代 羽稀

他の参加作品にも目をお通しいただければ幸いです。

 年代物の重厚な背表紙が並ぶ図書館で、私は梯子から転落した。確か五歳の時だったと思う。子供ながらに――おそらく人生で初めて――死を意識した。哲学書も教典も片っ端から読む読書好きの私にとっては『死』はそう遠いものではなかったから。

 だけど、存外偶然というのは珍しくない。たまたま近くにいた人が受け止めてくれた。

 一番高い棚の本を取るために三メートルの高さまで登っていた私は、どうやら危険に見えていたらしい。結果として助けられたわけだから『心配性だ』なんて言えない。けれど、人とめったに関わり合いにならない私には、その人に助けられたことが途方もなく恥ずかしかった。

 今思うと、その竦みあがるような恐怖だとか恥ずかしさで高鳴っていた心臓の原因を錯覚したのが恋の始まりだったのだろう。


 王立図書館に出入りできる人間だから、身分の高い騎士か、あるいは伯爵家あたりの子供だろうと思った。涼しげで清潔な表情は、まだ成人してそう経たないことを匂わせていた。まだ跡を継ぐには若すぎる、と見当をつけたのだ。

 落胤などでなければ王族でもないし、侯爵以上とも考えづらい――もしそうだったら、舞踏会などで一度くらい顔を合わせそうなものだ。

 だから、方々に聞きまわってもまったく情報が得られないとわかった時、私は信じられなかった。父の力さえ駆使して、王城の鼠一匹まで確認して回ったのだ。もちろん、王都から遠く離れた辺境の貴族や騎士の家系まで可能な限り情報を集めた。

 それでもなお、駄目だったのだ。

 気付けば、もはやそのきっかけが『錯覚』だったなんて考えもせず、一心不乱に探した。とうに身の丈を超えているとは思いもせず。のぼせたような心地で――あるいは夢のようなものかもしれない――私は名も知らぬの方を追い求めた。


 何にそれほど惹きつけられたのか、なんて野暮なことはこの際考えるべきではないと思うけれど、それでも少しだけ思う時がある。あの時私を突き動かしていたあの気持ちの源泉はどこにあるのだろう、と。

 十代も半ばに至れば、いろんな心労があった。だが、それよりもずっと前、まだ拙い感情しか抱けなかった頃の私が日常に鬱屈して、その反動で誰かを好きになったりするだろうか。ただ、好きだ、と思わせるだけの何かがあったはずなのだ。

 恋物語なんて、梯子に登ってばかりだった私は当時まだ一度も紐解いたことのない領域だ。大人ぶって背伸びをして、それでも足りずに危なっかしい高さの本ばかり目指していた私からは、最も縁遠い世界の話。

 だから、不思議だ。


 結局その人が誰なのかを知ったのは二年ほども後のことだった。

 事の顛末を語ろう。初めにあったのは、私の王都視察だ。記憶が判然としないが、たぶん私が衆目に晒されたのはあの時が最初だったと思う。どういう経緯でかは知らないが、『図書館に籠って小難しい本を読み耽る生意気な姫様』というのが俗説として語られていたと聞く。たしかに図書館に引きこもって小難しい本ばかり開いていたけれど、生意気と言うのは心外だ。

 馬車を降り、広場に設置された演壇に立って――私の頭は真っ白になった。

 王政は、王権は、これほどまでに憎まれていたのか。まだ子供だから、という盾を以てしても、まさかここまでの敵意が向けられるとは思わなかった。殺意に変じないのが不思議なほど。

 十秒ほど何もできずに固まっていると、群衆の中からちらほらと声が上がり始めて、私はあわてて口を開いた。

 生来、私は人と顔を合わせるのが苦手だ。図書館での一幕も、あそこでまともな感謝の言葉が出ていれば思い出になって終わっただろうと思う。だが実際にはつっかえるばかりで、今思い出しても恥ずかしいような声ばかりぼそぼそとこぼしていた。

 そんな私が、人口三十万に及ぶ王都の人口の八割までもを相手にして、まともに話せるはずがなく。


 そんな中、その人は現れた。


 最初の一文字を発した。声が裏返った。やり直すと、今度は三文字目で引き攣ったようになって、何も言葉になってくれなくなった。過呼吸になりそうになって、それを銀筒がていねいに拾って広場中へ垂れ流した。最初は少し笑い声が上がり、やがてそれは不安と侮蔑の混交物に変質していった。何をどうしたらいいのか、一瞬ごとにわからなくなっていく。

 突如、群衆の一角で狼狽するような声が上がった。その声の波は次第に手前の人へ伝わってきて、唐突に消えた。代わりに、二メートル以上もある演壇の上に一息で長身痩躯の男性が駆け出てきた。戸惑う間もなくその男は銀筒を脇へ蹴り飛ばし、私の隣に立った。

 よく知った顔だった。私が知っていた顔に、そのまま二年分の苦労と快楽、経験のすべてを積み重ねた顔をしていた。

 銀筒を遠ざけてくれたのは善意からだと思った。だから、喉をぎり、と掴まれた時、私はとっさに反応できなかった。いや、反応できていたとしてもどうせ何もできなかった。声はもちろんのこと、本や食器にばかり触れてきた私の手は彼を殴るために動いてはくれなかった。それにまだ当時七歳の私が、どんな行動をとれば彼の手を逃れることができたろうか。

 呼吸のペースが乱れていた時に喉を圧迫されて、まともに息ができるはずはなかった。人生で二回目の臨死体験、というのか。発砲は、当然されなかった。代わりに近衛兵たちが走りこんできて、完全に意識を失う間際で私を解放させてくれた。

 だが、騒動はそこで終わらない。兵士達から逃れるように身を乗り出し、青年が高々と叫ぶ。


「俺は国王の落とし胤だ!」


 私を守る役目を帯びた兵士たちに捕らえられそうになりながら、なおも抗い続ける青年は、しかし、欠片も苦しそうではなかった。欠片も悔しそうではなかった。ただ凛と未来を見据え、わずかに余裕さえ覗かせて、民衆と王権を挑発するような表情を崩さない。再び口を開いた。


「今より楽に暮らしたいと願うものも、今より清廉な政府であってほしいと願うものも、何の意味も持たない!」


 何かが爆発したように、端の見通せない群衆の隅々までその声が広がっていくのを感じる。拡声のためのパイプもなく、ただ肉声のみで、遠くの人間の心に声を届けていく。


「行動の前に思考は力を持たない!」


 敢然と国に戦いを挑む彼は、もはや明確に笑っていた。バキン、と肩の骨が砕かれる音にさえ膝を折ることもなく、倒れこむこともなく、ひれ伏すこともなく。次の声を待つように静寂を保つ民衆に笑顔で――不敵な笑顔で答えながら、


「戦わないものには、どんな些細な欲望も分不相応だ!」


 王権を否定した。私を否定した。権力を否定した。停滞を、委任を、諦念を、秩序を、――絶望を、否定した。


「もう夢はないのか? もう希望はないのか?」


 兵士の腕から力が消えたのが、傍から見てもわかった。


「敵は目の前にいる! 必要なのは武器と行動する決心だけだ! 願いの旗を掲げろ!」



 牢獄の鉄格子を挟んで、私と青年は向かい合った。

「あなたは、私の異母兄に当たるの?」

 確認のつもりで問うと、青年は声を立てて笑った。

「信じたのか?」

「当然でしょう。あの嘘が、果たして必要だったのかしら」

「いやはや、イヤな子供だね、君は。……喋れるのか」

 青年に指摘されて初めて、私は信じられないほど雄弁に話していたことに気づき、驚く。

「……私も、父上や母上、乳母たちとなら何の気負いもなく話せるわ」

「なるほど、異母兄なら家族も同然だ、と。そういうことにしておこうか。……あの嘘は、意図して口にした嘘だよ」

 再び驚愕。呆気にとられる私に、青年は語り続ける。

「ああいう演説は、まず聴衆を黙らせる必要があるんだよ。さらに、無視されてもいけない。さらにあの演説は民衆を煽るためのものだからね、鮮烈さが必要だったんだ」

 後ろ手に手錠をかけられた腕を揺らした。肩が痛むのか一瞬顔を歪めたが、すぐに元の人を食ったような表情に戻り、口を開く。

「それから、何らかの方法で俺が脱出に成功したとしても、民衆は誰も俺の生存を信じやしない。――新しい自分として人生をリスタートするには、あの嘘が欲しかった」

「馬鹿みたい」

 咄嗟に口をついて出た自分の言葉に、私は狼狽した。でも、いまさら隠せない。思ったこと全て、言葉にする。

「あなたと私に血の繋がりがあるかなんて関係ないのに、なんで私はお互いの距離をはかろうとしたのかしら。

 表舞台に出るには制約が付きまとうのに、なんであなたはあんな無茶をして人生をリセットしたがるのかしら。

 ――私、あなたのことが好きだわ」

 青年が息を飲んだ。

「だからあなたとの恋が道ならぬものではないという証明が欲しかった。あなただって気づいていたのでしょう? だから、人生をやり直そうとしている」

 自分の居場所のない革命に民衆を導くほどお人好しだもの。あのあまりにも危険な嘘を計画的につくほど大胆かつ聡明だもの。

「少しこちらに寄りなさい」

 何が何だか、と言いたげな、青年の顔に似つかわしくない呆けた表情が鉄格子を挟んですぐのところに迫る。

「目を閉じて」



 戦いの方法を知らない王は、城を囲まれたと知るや否やすぐさま白旗を上げた。門が開かれ、我先にと城を駆け上がった兵士たちが謁見の間で見たのは、近衛騎兵長と彼に切り捨てられた王の亡骸だった。

 騎兵長はすぐさま、私と旧国王の落胤――を名乗った青年・ディステロスを探し出すべし、とのお触れを出した。その二人は、彼自身の手によって未だ城に匿われていたというのに。

 王城が、大げさに言えばもぬけの殻になったすきに、私とディステロスは地下の下水道を通って王都を抜け出した。

 そして、今、娘と息子が庭を駆け回る様を眺めつつ、私はここに自らの秘密の恋の話を書き留める。

 偽りはない。ただ、夢の煙に包まれた思い出が残るのみだ。

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[良い点]  美しかったー。策略、謀略、暴力、力!  好きですね、こういうの。
[一言]  城を落とされ、全てを失いながら、形のない満足感を得る。  若いなぁ  そして、若いっていいなぁ  そう、感じました
[良い点] 青年が群衆の心を掴み扇動する、その場面が際立っていてとても印象に残りました。 早熟過ぎる少女がちゃんと大人になって、過去を振り返る事ができる程の幸せを手に入れたラストで、嬉しいです。 (ハ…
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