最終話
そうして小一時間の後には、僕は船に乗せられ、あのニート矯正収容所と名付けられた施設をあとにしていた。
船の上から遠目に見える孤島が、徐々に小さくなってゆく。
その風景を眺めていると、僕の胸に寂寥感を交えた複雑な感情が去来する。
誘拐犯。
それが、あのニート矯正収容所の施設運営側の人間に与えられた、社会的なステータスだった。
僕らニートを誘拐してあの施設内に監禁したとして、施設は警察の立ち入りを受け、所長たちは犯罪者として捕まったのだ。
どうやらあの、街ひとつを収めたような巨大施設は、日本の領内にある無人島ひとつを買い上げた富豪が、金の力で作り上げたものだったらしい。
そのためにどれだけ膨大な資金が必要になるのか、僕にはその桁数すら想像がつかない──というか、お金の力でそれだけのことができると言われても、にわかには信じられなかった。
だけど世の中というのは往々にして人の手によって作られるもので、お金を払えばその人の手を買うことができるのだと言われれば、納得はできないまでも、理解ぐらいはすることができた。
同時に、世界は誰かの仕事でできている、という缶コーヒーのCMのキャッチコピーを連想する。
ちなみにあのVRMMORPGを銘打ったゲームは、どこぞの天才科学者が作っている最中だったものらしい。
その天才科学者が、完璧を期したくて発表していないうちに、事故でぽっくり逝ってしまった──そうして宙ぶらりんになっていたものを、とんでもない値付けで買い取ったものなんだとか何とか。
嘘みたいな話だが、現実に体験している身としては、否定しきれないものがあった。
まあいずれにせよ、その富豪の気まぐれで作られた施設に「監禁」されていた僕らは、警察の手によって救出され、各々の自宅まで護送されることとなった。
そうして僕は今、船上にて遠ざかる孤島を眺めているのだ。
でも──確かに僕らは監禁されていたのだけど、あれを監禁だと言われても、僕にはどうにも実感が湧かなかった。
そして同様に、救出されたのだと言われても、救われたという気はしなかった。
むしろ、もうしばらくあの施設にいたかったという想いすら、僕は持っていたのだ。
あそこでは僕が、自分の力で生きていけているという実感があった。
生活保護だと言われても、生きるために必要なお金を自分で調達しているんだという、奇妙な自負のようなものを持っていた。
両親のいる自宅に戻れば、僕はまたニートに逆戻りし、毎日を後ろめたい気分で過ごさなければならないのかと思うと、気分は憂鬱になる。
──いや、分かっている。
だったら、働けばいいんだ。
別にいきなり正社員だ何だと気張らなくても、アルバイトでも十分だ。
僕が住む東京都の現在の最低賃金は、時給888円。
それだけあれば、自分1人生きて行くためのお金ぐらいは、十分調達できる。
分かっている……だけど。
僕の心は不安に押し潰されそうになる。
あのゲームの中でなら、僕は僕の実力で、それなりにお金を稼ぐことができる自信がある。
でも、現実の仕事となると、まったく想像がつかない。
僕にそれができるのか──いやそもそも、僕なんかがアルバイトに応募して、採用してもらえるのか。
未知の世界への恐怖。
自分という存在が拒絶されることへの恐怖。
ずっと働かずに家にいた僕にとって、現実の社会というものは、僕の心を食い殺してしまうであろう、何か得体のしれない恐ろしい魔物のように思えた。
そんなことを考えていたら、僕はあのニート矯正収容所で、所長が行なった最後の演説を思い出していた……。
ログイン状態からの強制切断を受け、僕はゲームの世界から強制的に現実に引き戻された。
ニートと黒服と警察官がごった返すその寝台の並んだ部屋で、所長は2人の警察官に取り押さえられ、壇上で神妙な顔をしていた。
──かと思ったら、所長はいつもの調子で、僕らに対して演説を始めた。
「よかったな、ニートども! これでこのクソったれな施設からも解放だ。貴様らは晴れてもう一度、人間様の仲間入りだ」
取り押さえられたまま演説を始めた所長に、取り押さえている警察官たちのほうが狼狽え、指揮官らしき上司の警官の顔を見る。
上司の警官は、やらせてやれとばかりに、部下たちに顎で合図を送る。
所長を取り押さえていた警官たちは、彼女から手を離す。
所長は警官たちに礼を言うと、再び僕らの方に向き直った。
「だが最後に、私からお前たちに、言わせてほしいことがある。……これで、私がお前たちにできることは、おそらく最後になるだろう。聞く気のある者だけ、聞いてくれ」
所長らしからぬ、しおらしい言葉。
僕は──聞きたいと思った。
傾聴する。
「お前たちには、今までもそうだったろうが──これからもおそらく、何か不愉快な現実の牙が、幾度も襲い掛かることだろう」
不愉快な現実……。
うん、いくらでも思いつくな。
例えば……今後も僕の、小説家になりたいという夢はかなわず、才能や作品はいつまでも評価されないままかもしれない。
それは考えるだけで陰鬱になる、非情な現実の牙だ。
所長の話は、続く。
「何か不愉快なこと、うまくいかないことがあったとき、お前たちはきっと、環境が悪い、世の中が悪い、あいつが悪い、誰が悪いと言って、自分以外の何かのせいにしようとするだろう。これはまあ、誰だってだいたい、そういうものだ」
…………それは、何だ。
本当は全部、自分のせいなんだって言いたいのか。
いや、でも、それはおかしくないか?
だって例えば、小説投稿サイトで真っ当に質の高い作品が評価されず、特定のジャンルの作品ばかりが好評を博するなんて現象は、どう考えたってその投稿サイトの問題であり、そこの読者の好みが偏っていることによる問題だろう。
それを全部自分のせいだなんて思うのが正しいなんて、それは……違うんじゃないか。
「だが、勘違いするなよ。だから全部自分のせいにしろなどと、そんな下らんことを言うつもりはない」
……ん?
「環境のせいにするな。だが、自分のせいにもするな。何かのせいにして思考を停止するようなスタンスは、遅行性の毒となって、やがてお前たちの未来を絶つことになる」
……えっと、なんだ、どういうことだ。
自分以外の何かのせいにはせず、自分のせいにもしない?
「ゲームでも言ったな。環境を非難することに心血を注いでいては、自分が取るべき行動は見えてこない。クソゲーならクソゲーだと、自分が与えられた環境を、まず認めろ。それから考えろ。ならば自分は、どうするのかと」
……ああ。
「自分に関しても同じだ。今の自分、過去の自分を責めても恥じても、そんなものはクソの役にも立たん。まずは今の自分を認めろ。その上で、たった今より、少しでも前に進む方法を考えて、それを実行することだけに専念しろ」
環境を認めろ。
今の自分を認めろ。
その上で、行動を考え、実行しろ……か。
「後悔をするな。反省をしろ。過去の自分の失敗や怠惰を悔いることは、反省ではない。過去の失態を教訓とし、将来への前向きな糧とする──反省をするというのは、そういうことだと弁えろ」
つまりは──環境が悪いのか、自分が悪いのか、何が悪いのかなんて、そんなのはどうだっていいってことで。
考えるべきは、今後自分がどうするかという、将来に向かっての行動のみ。
「そうしていれば、5年後、10年後には、誇れる自分になっているはずだ」
そう言って所長は、最後の演説を締めくくった。
今の所長の言葉は、何人のニートに伝わったんだろう。
僕は、正しく受け取れたと思う。
でも、所長に好感を抱いていなかった連中には、きっと伝わっていないだろう。
そもそも、こういう誰かの生の言葉というのは、伝わりにくいものなんだ。
僕たちは、人から言われたことよりも、自分で気付いたことを大事にする。
だから、今の言葉が何人のニートに伝わったのか、分からない。
でも所長は、やるべきことをやりきったという顔をしていた。
「……お前さん、まさか本気でそんなことを伝えたいためだけに、あんな巨額の金をドブに捨てるような真似したのか?」
ふと見ると、所長の隣で様子を見ていた警察官の上司っぽいおっさんが、呆れ顔で所長にそんなことを話していた。
「金は自分で稼げ、というのが祖父の口癖です。お爺ちゃん子だった私にとっては、祖父の遺産などは、パァッと全部使い切ってしまうのが、亡き祖父の意に沿うんですよ」
おっさんに答える所長。
「はぁ……そういうもんかね。俺みたいな小市民には、わかんねぇ話だな」
「心外ですね。私だって小市民のつもりですよ」
「へぇへぇ、そうですか。んじゃ、お互い小市民らしく──そろそろ引っ張っていいかね」
「はい。あなたの温情に感謝します」
そう言って所長は、手錠をかけられ、しょっ引かれていった。
それが、僕が所長の姿を見た、最後の時間だった。
僕は船上で、あのときの所長の言葉を思い出し、考えていた。
僕はこれから、自宅に戻って、再びニートに戻る。
そこで何もしなければ、今まで通りの自分に戻るならば、僕は親に寝床を用意してもらい餌を運んできてもらう雛鳥のような生活に逆戻りだ。
環境が悪いと言えば、悪いのかもしれない。
例えば、親がもっと真剣に僕に対して社会で生きる術を叩き込み、成人になったあたりで家から放り出してくれたなら、今の僕はもうちょっとマシな存在になっていたかもしれない。
だけどそれが責任転嫁だってことも、心の奥底では分かっている。
本当は、僕自身がどこかで決断し、勇気を出して一歩を踏み出さなきゃいけなかったことなんだ。
──でも、所長の考えに従うなら。
誰が悪いかなんてことは、どうでもいいことだ。
ただ未来に向かって、自分の行動を考え、実行する。
それが、僕のすべきこと。
考える。
何度も考える。
何度も、考えは同じところに辿り着いた。
……はあ。
正直、怖いな。
過去の僕が踏み出せなかったのも、こりゃしょうがないわ。
でも、僕は怠け者だから。
今ここで動かなければ、またニートという窮屈な楽園に囚われてしまうことは、きっと揺るぎない。
鉄は熱いうちに打て。
僕は自分の心が冷めないうちに、家に辿り着くことを願い──いや、違うと思いなおす。
僕は僕たちを護送する警察官のひとりに、電話を貸してほしいと頼んだ。
何に使うのかと聞かれ、家に電話したいと言うと、彼の個人的な携帯電話を快く貸してくれた。
僕はその警察官にお礼を言い、借りた携帯電話で自宅の電話番号を入力、発信する。
数コールの後、電話が繋がった。
電話に出たのは母さん。
僕は事情説明を求める母さんの言葉を遮り、言った。
「僕、帰ったら、一人暮らしをしたい。それで父さんと母さんに、お願いがあるんだ」
数時間の後に自宅に到着すると、時刻はもう夕飯時だった。
親子の感動の再会は、何とも言えない微妙な感じだった。
僕はその夜の食卓で、父と母に、一人暮らしをしたいから50万円を貸してくださいと頭を下げた。
ちなみに父はいつも夜遅く帰って来るが、この日は母が事情を話して、会社の都合をどうにか切り上げて早く帰って来させたらしい。
父から50万円の用途を聞かれ、住居を借りるための初期予算としていくら必要で、月払いのバイトの給料が出るまでにいくら必要で、その他不測の事態のためにいくら必要で……ということを、僕は半ば興奮気味に説明してゆく。
最初、父と母は僕が何か良くない勧誘にでも引っかかったんじゃないかと疑っていたようだけど、返済計画までを含めて根気よく説明したら、やがて理解してくれた。
そして父は、最悪、消費者金融から借金をしてでも50万円用意すると約束してくれた。
いやそこまでは……と断りそうになったけど、これは必要なことだと思ったし、僕自身ではそんな借金をできる社会的な信用もないのだから、言葉を引っ込めた。
それよりも、そんな程度の金額がポンと出せないような家計状況で僕の脛かじりを許していたことに、僕は驚きを隠せなかった。
僕の両親は、案外バカなんじゃないだろうか。
僕はこのとき初めて、両親を自分と対等の人間として見た気がした。
そうして僕は、親から借りたお金で住居を借り、現実世界で一人暮らしを始めた。
家賃4万円で借りられた一室は、ニート矯正収容所で借りた部屋と比べ、圧倒的に古びていた。築60年らしい。
それでも、自分の住居であることには、変わりはない。
仕事を探すより先に一人暮らしを始めたのは、怠け者で臆病な自分の退路を断つためだ。
そうしなければ、本当の意味で必死になれないと思ったからだ。
それでも理屈上は、両親という後ろ盾は健在なのだが、物理的に隔絶されるだけでも実感が大きく違ってくる。
仕事がなく、収入がないことによる焦りの度合いは、家にいるときとは桁が違う。
僕のことを知り尽くした僕による僕に対する戦術は、果たして功を奏した。
仕事は、その気になれば案外とあっさり見つかった。
コンビニのアルバイト。時給は900円。
仕事自体は、覚えてしまえば難しくはなかった。
これで900円という時給が、はっきり言っておいしいと感じるのは、より下の世界を体験してきたからかもしれない。
ただ難しいのは、ストレス管理だった。
俺様はお客様だから神様扱いされて当然ですみたいな客の相手をしてムカついたり、先輩の理不尽な言動に腹を立てたり、店長からの無茶な要求に不満や怒りを感じたりと、日々ストレスは尽きない。
だけどそれも、生活のためだと思えば、ある程度は受け流すことができた。
ブチ切れて仕事をやめることと、それでも仕事を続けること、どちらのリスクがより大きいかを天秤にかければ、寝て起きたら冷める程度には、消化できる。
その上で、じゃあ自分はどう行動するかを考えて動いたり動かなかったりしたら、状況は少しだけ良くなった。
所長やナナ、あの施設で会ったほかのニートたちとは、以後僕の人生で、まったく出会うことはないと思っていた。
しかし、インターネットの小説投稿サイトで『ニート矯正収容所』という作品を公開していた僕に、ある日メッセージが届く。
『私、多分この作品の「ナナ」です。胸の大きさを強調されている記述を見て幻滅しました。セクハラで訴えていいですか?』
そうして再び知り合った彼女とは、その後もネット上で交流を続けている。
そして仕事の合間には、小説も書き続けている。
僕はニートであった以前よりも、生きることが楽しくなっていた。




