後日の記録-7
僕は所長との交渉を終えた後、ナナの寝台へと向かい、彼女に声を掛け、起こした。
そして封筒から1万円札を1枚取り出して渡し、それでゆっくり休むように言う。
堅い寝台で目を覚ましたばかりのナナは、目を丸くした。
「1人でこんなに稼げたんですか……? 一体どうやって……でも、これ私が使っちゃったら、ポーンさんが……」
そう言うナナに、僕は封筒から19枚の1万円札を出して見せる。もう一度驚愕するナナ。
「まあ、いろいろ事情があって。その辺は今度ナナさんが元気になった時に話しますから、とりあえず今日はそれで休んでください。明日も、体調が芳しくなければ、そのまま休んでください。金曜日に来てもらえれば、多分なんとかなります」
そう言って僕は、ナナに微笑みかける……けど、ちょっと表情が引き攣ってしまった感じがする。
人付き合いしていなかった時間が長すぎて、笑い方を忘れているな……。人を安心させるとか、難しすぎる。
ナナはしばらく逡巡していたようだったけど、最終的には首を縦に振った。
そして、
「……私、ポーンさんのことを誤解していたかもしれません。ごめんなさい」
なんて謝られてしまった。
何をどう誤解していたんだか気になったけど、なんとなく聞けなかった。
賃貸住宅の物件探しは土日に回すことにして、この日は結局、僕もカプセルホテルに宿泊することにした。
19時頃に勤務(?)を終えてから訪問すると、不動産屋の営業時間がもうほとんど残っていなくて、慌てて物件回りをして即決すると、失敗しそうな気がしたからだ。
なので、その日は簡単に話だけ聞いて終わりにする。
ちなみに、初めて不動産屋の扉をくぐるときは、滅茶苦茶緊張した。
何度も、今日はやめにしよう、また今度にしようと引き返しそうになった。
普通の人はこの勇気を、一体どこから絞り出しているんだろう。
翌日。
9時になってもナナは来なかった。
まあこれは想定内、というか僕が勧めたことだ。
というわけで僕は9時前にログインし、ドロップタイム開始とともに、ソロで黙々とポヨンを狩ってゆく。
草原フィールドを歩き回って、ポヨンに遭遇しては木の棒で叩いて倒してゆく、単調な作業だ。
ちなみに、この日は昨日と違って日次報酬の必要性に迫られていないし、ちゃんと昼食休憩などもとって快適に狩りをしよう……そう思っていたんだけど。
僕はその段、昼食時になって気付く。
昼食をとるためにログアウトするには、HPとMPを全快状態にしないといけないのだ。
だけどHPやMPといったリソースは、まだ大して減っていない。
昨日と同様、このまま18時まで突っ走れるぐらいには残っている。
つまり、無駄に回復所を利用しないと、ログアウトができないという事実にぶち当たったのである。
そして、そのために1,400円もの大金を余分に支払うのは、ちょっといただけない。
結果として僕は、この日も昼食休憩なしに、午後は空腹感を引きずりながら18時までぶっ通しで狩りをすることになった。
その結果、撃破できたポヨンの数は40匹。
獲得した金額は、ポヨン40匹撃破により獲得したドロップ金の合計額4,000円から、回復所利用料の1,400円を差し引いた2,600円だった。
だけどこの収入額では、カプセルホテルの宿泊費と食費、合計およそ4,000円を差し引いたら、赤字になる。
さらに借金返済の800円も持っていかれる。
手元に18万円以上あると言っても、こんなことを続けていたら、いずれ破綻する。
だから、ミッションの達成は必須だ。
ミッション達成条件は、金曜日──すなわち明日の18時までにポヨンを180匹撃破することだ。
一昨日の撃破数が46匹、昨日が38匹、今日が40匹。
180-46-38-40=56匹、というのが明日の撃破数目標となる。
というわけで、明日56匹を撃破できなければ、ミッション達成による報酬18,000円がフイになる。
(ミッション達成による報酬総額は180匹×120円=21,600円だけど、初日に日次報酬として3,600円を受け取っているから、残額は18,000円になっている)
残り56匹なら、明日ナナが来て2人でやれば、十分達成できる目標値だ。
エネミーに遭遇するまでの探索時間が半分になれば、昨日や今日の狩りの成果から判断して、単純計算で70~80匹ぐらいの撃破数は期待できるだろう。
というわけで、いろいろと不測の事態を考えても、ナナが来ないということさえなければ、多分どうにかなる──それが、僕が立てた計算だった。
ナナに今日までは休んでも大丈夫と言ったのも、この視野がだいたい見えていたからだ。
そして翌日。運命の金曜日。
僕が8時30分頃にいつもの建物に到着した時、そこにナナの姿はなかった。
まあ、まだ9時までには30分もあるから、今来ていないからといって、焦るような時間でもないんだけど……。
1日の撃破数56匹という目標は、僕1人でクリアできる数字ではない。
ナナが今日来てくれなければ、ミッション達成報酬の18,000円が受け取れないことは、ほぼ確定事項となる。
借金をしたおかげで幾分かの資金プールがあるとは言え、ここを取り漏らすことは看過できない損失になる。
何もしていなくたって、生活費は毎日かかるのだ。
無論、ナナ以外の誰かをパーティに誘うという方法も考えた。
が、どのニートも初日段階でパーティを組んでしまっていたし、2日目のミッション発表では、どこのパーティも僕と同じように、自分のパーティ人数を前提にミッションを受領していた。
なので、相応の報酬を約束しても、僕の都合に合わせて具合よく人手を「貸し出せる」パーティなんて、簡単には見つからなかった。
むしろ、うちのパーティと同じような理由で、人材の貸し出しを求めているパーティがいくつかあったぐらいだ。
『良かったっすねー、社長さん気分っすよ、ご主人様』
人材の調達なんてことを考えていたら、いつだったかのチュートリアル妖精の言葉が思い起こされた。
……社長っていうのは、こんなことに悩むものなんだろうか。
僕は以前、自分の時給(?)を計算してみたとき、時給750円もの額を受け取れる見込みがあることに驚いたのだけど。
でも実際のところ、金額を保障されている賃金と、僕らの環境で得られる見込み額とでは、その価値が大きく異なる。
このままミッションを達成できなければ、この週の僕の実質時給は400円にも満たなくなる。
時間400円弱、1日8時間働いても3,000円にしかならないのだとしたら、1日4,000円の生活費を必要とする環境下では実質的に赤字採算だ。
そういうリスクを負った時給750円と、働いた分だけ金額が保証される確実な時給750円とでは、まったく価値が異なってくる。
……考えてみれば、その仕事によっていくら稼いだかとは関係なしに、働いた時間に対して給料が支払われる一般の雇用契約っていうのは、結構とんでもないものだと思う。
資本主義社会の中にあって、企業の中でだけは社会主義をやっているようなものだ。
雇われる側にとっては安心できるけど、雇う側になって考えてみれば、なかなかに厄介な話だ。
例えば、今の僕の立場が社長みたいなものなんだとしたら、僕はナナという従業員を、時給いくらで雇えるだろうか。
時給750円……は、僕の手元に残るお金とリスクを考えたら、正直ありえないと思う。僕の方の分が悪すぎる。
時給400円なら、まあアリだろうか。この数字なら、このままミッションを達成できなければ僕のほうが多少、時給が少なくなるけど、逆にミッションを達成できれば僕の方はガッポガッポだ。
でもこの金額だと、ナナの方から三行半を突きつけられるかもしれない。
ほかのもっと条件のいいパーティに行くかもしれないし、自分でミッションを受領してソロで活動するかもしれない(ナナにその甲斐性があればの話だけど……)
そうすると、実際には500円~600円ぐらいに落ち着くんだろうか。
600円とかだと、雇う側としてはキツイな……。
今回みたいな体調不良などによる欠勤が絶対にないと言えるなら、600円どころか700円、あるいは800円でも十分に採算が取れるかもしれない。
でも今回みたいなケースを計算に入れて動かないといけないとしたら、正直に言って、計算が立たない。
まあ実際には、僕はナナを固定の時給を支払って雇っているわけじゃないから、これらの話はあくまでも仮定の話だ。
でも、今日ナナに来てもらわないと困るのは一緒だ。
このミッションを達成できなければ、僕も大幅赤字を食うことになる。
ナナが働けないことで困るのは、ナナ自身だけではないのである。
僕はナナに対して、最大限の譲歩をしたつもりだ。
2日間の休養と、それをするためのお金を用意した。
これで今日もし、ナナが来なかったら──僕はナナを、どうしてしまうんだろう。
そんなことは考えたくもなかったから、頼むから来てくれと、願うしかなかった。




