ガールズサイド
──その日の朝 ナナ視点──
頭の真上で目覚まし時計が鳴って、私の意識が覚醒を始める。
頭がズキズキと痛む。
胸のあたりにもやもやとした不快感があって、ちょっとした拍子に吐き気に変わりそうだ。
全身がだるく、熱っぽい。
典型的な風邪の症状。
私はうるさい目覚まし時計を止めるため、意志の力を総動員して体を動かす。
私の手が闇雲に時計を操作して、ようやく音がピタリとやむ。
時刻はと見ると、8時を少し過ぎていた。
真上、右、左……どの方角を見ても、すぐ目の前に壁があった。
狭苦しい、牢獄のような寝床……私が今いるのは、カプセルホテルの寝室だった。
とは言っても、カプセルホテルのこの睡眠環境に大きな不満はない。
前日のネットカフェに比べれば、百倍いい環境だと思う。
ただ、時間経過的な問題なのか、私の体調は昨日よりも悪化していた。
体調不良を感じ始めたのは昨日の寝起きだ。
睡眠環境としては劣悪なネットカフェでの1泊は、体があまり丈夫とは言えない私の体調を崩すに十分だったようだ。
そしてそれを決定的にしたのが、昨日のVRゲーム内での活動だと思う。
あのゲームは脳や体に負担があるのか分からないが、ゲーム内で時間を過ごすごとに、私の体調は悪化していった。
いい加減我慢できなくなりそうなぐらいに苦しくなってきたときに、パーティの相方の彼──ポーンが、そろそろ上がってもいいんじゃないかと提案してきた。
私は、渡りに船とばかりにその提案に乗った。
ログアウトして生活保護費を受け取り、その足でカプセルホテルに向かった私は、フロントでポーンと別れて寝室に辿り着くと、倒れるように寝込んだ。
それでも、翌日のことを考えて目覚まし時計をセットできたのは、まだあのときのほうが体調に余裕があったからだ。
今はもう、それをする気力もない。
ただただ、もう何がどうなってもいいと思いながら、私は再び眠りに落ちてゆく……。
そのまま10時過ぎまで寝込んでいた私は、カプセルホテルの従業員によって叩き起こされ、寝床から追い出された。
このカプセルホテルのチェックアウト時刻は10時。
当然、お風呂やシャワーを利用させてもらうこともできずに、脂汗と寝汗にまみれたパジャマ姿の私は、その身ひとつで路上へと放り出される。
私はそのまま、路上で子どものように泣きじゃくった。
だけど、通行人はそんな私に構いもせず、ただ通り過ぎてゆくばかりだ。
私は泣きながらも、背筋が凍るような悪寒を感じる。
何これ。
ここは何なの?
人の温もりとか、人情とか、そういうものの一切がないかのように思える。
そう思うと、激情がスッと冷めていった。
直前まで泣きじゃくっていたのが嘘のように、涙が引っ込む。
バカか私は。こんなところで泣いてる場合じゃないだろ。
そんな温いことをしていたら本気で──死ぬ。
私は生存本能に突き動かされるように、命を繋ぐための収入を得られる場所──VRゲームをプレイするための、あの殺風景な建物へと向かう……。
私はあの寝台が立ち並んだ部屋にフラフラと辿り着くと、自分にあてがわれた寝台の上にどさりと倒れ込む。
ぐっすりと眠るには不適切な、硬い寝台だ。布団もない。
だけどそれでも、何も考えずに横になって、意識を飛ばしてしまいたい誘惑に駆られる。
……でもそれじゃ、駄目だ。
私は意志の力を振り絞り、ゲームへとログインする。
視界がゲーム内の噴水広場を映し出す。
頭痛がひどくなった気がするけど、そんなものは気にしていられない。
私はポーンに短いメッセージを送り、それから噴水広場の端にあるベンチに倒れ込む。
それから5分ほど経った頃だろうか。
「ナナさん……体調悪いんですか?」
目の前にポーンが立っていた。
そんなこと見れば分かるでしょと悪態をつきたくなるが、我慢する。
彼を……手放したらダメだ。
ポーン。私よりも幾分か年上に見える、私と同じニートの男。
一見すると優しそうに見えなくもないが、その優しさに見えるものの本質は、おそらく、他人に対する無関心だ。
私の何となくの勘だけれど……彼は多分、自分以外の誰にも興味がない。どうでもいい存在だと思っているんじゃないかと思う。
いや、ひょっとすると彼は、自分自身すらどうでもいいと思っているのかもしれない。
そして、関心がないから、どうでもいいと思っているから──彼にとってどうでもいい範囲でのみ、人に優しくするんだと思う。
カプセルホテルの前で、泣いている私を無視して通り過ぎていった通行人たちを思い出す。
彼──ポーンの本質は、多分アレと同じだ。
どこかでふっと糸が途切れれば、何の躊躇いもなく私を置いて、1人でどこかに行ってしまうだろう。
そうだと思ったから、「私を見捨てないで」なんて言ってしまったときもあった。
話の流れで言ってしまったものだし、あのときは感情的になっていたこともある。
あんなストレートな物言いは、できる女子ならしないんだろう。
もっと巧妙に「女」という武器を使う……んだと思う。
だけど、私にそんな器用なことができるなら、そもそもニートなんかやっていなかっただろう。
「遅くなってすみません。今日の狩り、始めましょう」
甘えん坊の私の口から出たとは思えないような言葉とともに、私はベンチから身を起こす。
女の武器を器用に使いこなせないなら、せめて、愛想を尽かされないようにしないといけない。
「大丈夫なんですか……?」
ポーンが心配の言葉をかけてくる。
でも、そんなのは私の神経を逆なでするだけだ。
大丈夫じゃないなら、ポーンさんが私の分の生活費まで払ってくれるんですか?という言葉が喉元まで出かかって、どうにか押しとどめる。
「大丈夫ではないですけど、やるしかないですから」
言って、私は立ち上がる。
でも、立ちくらみがして、ふらりと倒れそうになってしまう。
倒れる私の体を、ポーンが支えてくれる。
「はあ……はあ……」
頭が痛い、吐き気もする。
ポーンに支えられて、今の私はようやく立っていられる状態だった。
なんで……なんで私はこんなに弱いんだ。
まだ死にたくないという気持ちと、こんなことではポーンに見捨てられるという恐怖とが、ぐちゃぐちゃになって私を襲う。
──だけど、もうダメだ。
どんなに気持ちを張っても、前向きになっても、絶望という大きな壁が私の心の視界を支配する。
「ナナさん」
私の心が崩れ落ちそうなとき、ポーンが私に声をかけてくる。
彼の言葉に、私の心がビクリと恐怖する。
いやだ……見捨てないで、お願い……。
私はもはやなりふりも構わず、すがるように頭上の彼を見上げる。
だけど彼の言葉は、私の怖れていたものとは、まったく違っていた。
「ナナさん、今日はもうログアウトして、寝台で寝ていてください。ナナさんの食費とカプセルホテルの宿泊代は、僕が何とかします」
……えっ?
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
どういうこと……? 本当に、私の分の生活費を、ポーンがどうにかしてくれるっていうの?
「えっ……で、でも……」
「いいから。今日は1日安静。いいですね?」
そう言われるともう、私の心はぽっきりと折れてしまった。
「…………はい」
私は絞り出すようにそれだけ言うと、彼の言う通りにログアウトした。
そうして現実世界に戻ってきた私は、寝台の上で「吊り橋効果」という言葉の意味を思い起こしつつ、意識を失った。