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桜の木の下の

作者:

ショートにしていた髪を伸ばし始めて一年が経った。

今、髪の長さはやっと肩についたぐらいで、まとめ髪がなんとか出来るぐらいだ。


髪を伸ばし始めた理由は、ずっとショートだったから伸ばしてみたかったし、親友の美月の綺麗な長い髪にずっと憧れていたということもあるし、何より好きな人が長い髪が好きだった事が大きい。


好きな人に少しでも気に入られたかったから、それだけだ。


その人と出会ったのはちょうど今の時期だった。校庭の桜が一斉に咲き誇った春の頃。一年経ってまた桜は咲き誇り、私は好きな人と少しだけ近づけた。先生と生徒という関係上に限定すれば。そこには親友の美月という存在が大きかった。私は偶に思ってしまう。もし美月がいなければ、先生と私は今の様に親しくなれたのだろうか、と。

必然的に答えは出てくる。だけど同時にそれは私を少し傷付ける。だからもし、なんておきないのだから私はその痛みを無視すればいい。


桜が咲き誇り、そして散る様に、その痛みも、先生への思いもいつか消えていくのだから。





高校生になって二回目の春。

去年みたいなドキドキした感じも、受験に対する不安も何もなく、休み明けで久しぶりに会った見慣れたクラスメイト達と馴染んできた校舎。新鮮味というものが全くないスタートだった。


だけど今年も美月と同じクラスで担任の先生も評判がいい先生だった。席も窓際の一番後ろ。私にとっては良いスタートだった。


担任の柏村先生は数学の先生だ。

優しく、穏やかな、ロマンスグレーで、ロマンスグレーという言葉がこれ程ぴったりとする人もいないだろう、授業だって熱心だ。生徒が好きで、ちゃんと先生になりたくて先生になった人なんだろうな、と思う。だからと言って理想を押し付ける訳ではない、そんな先生だ。


暖かな陽気に教室の窓を開ければ、そろりと風を運んでくる。私の少し長くなった髪をくぐる様に通る風は心地よかった。ふと眠気を感じて、このまま身を委ねてしまおうかと思った。今は授業中でもないし、誰も咎める人はいないだろう。


今日は午前授業で早帰りの日だから、校舎も人が少ないのか、いつもより静かだった。遠くに聞こえる運動部の人達の声すら心地よい。


眠りの前の緩い思考はどんどんと速さを落としていく。瞼が自然に閉じる頃には私は眠りに落ちていた。



ー髪が長い人が好き、かな。


桜の下で先生は言った。

私はちくりと胸が痛んだ。たかが一言、そして髪が長くてもなんでも先生の好きな人にはなれないのに。


先生の言葉に、美月が何か言った。私は美月を見た。言葉は頭に入って来ない。綺麗な長い髪。かぜがそよいで、桜が一枚ひらりと舞い落ち、その髪に乗った。今まで感じた事のない感情が胸を支配する。


私はこの感情をこの時知ったのだ。今も何処か胸の奥に疼いたまま、そして時折顔をだして私を苦しめるこの感情の名はーーーー、




「さ…ん、里森さん!」


「あ、…柏村せんせ…」


桜の木と美月と先生が消え失せ、代わりに柏村先生が現れた。

ただ夢の中の暖かさと、今この瞬間の暖かさがとても似ていて、まだ夢から覚めた気がしなかった。ぼんやりした頭は中々動き出さない。随分寝てしまったのか、でもまだ外は明るい。日の光に赤みは混じっていなかった。


「君は良く教室で寝るねぇ。…今日は課題がないのにね」


先生は苦笑して言った。私の日課を知っているのだ。放課後に課題をしている事も、偶にその途中で寝てしまうことも。柏村先生にも何度か起こされた事がそう言えばあった。


「すみません。ちょっと気持ち良くて」


「まぁ、確かにね。でも風邪を引いたら大変だ。…そうだ、坂本さんも昼寝してるから迎えに行ってあげてね」


美月の名前に胸がざわつく。夢から覚めたはずなのに、余韻はまだ残ったままだった。


「…美月はどこですか?」


「ほら、あそこだよ」


先生が窓の外を指した。

広い校庭を横切り、その先にあるのは満開の桜。誰かが幹にもたれる様に座っていた。あれは美月だと先生が言う。だとしたらあの夢みたいだ。先生と私はいないけれど。


「分かりました、迎えに行ってきます」


「そうしてあげなさい。早く帰るんだよ」


先生の穏やかな物言いに、少しざわついた私の気持ちも落ち着いて、先生の言う通りにすれば間違いないような、そんな気がした。


校庭を横切り、桜並木に向かうと美月は一番大きな桜の木の下にいた。

改めて近くで見ると、その風景がとても綺麗な事に気付いた。満開の桜と、美しい少女。いつも一緒にいるせいで忘れてしまうが、美月は髪だけでなく、顔も全てが綺麗な子だった。誰もが美月を見ては振り向くぐらいに。


私は起こさない様にそっと近づく。何と無くまだこの風景を見ていたかった。隣に座れば、緩やかな呼吸が聞こえる。美月はまだ目を覚まさない。私も幹にもたれかかった。


ー桜の木の下には、死体が埋められていらからね。


ふと、夢の続きが頭を掠めた。

一年前の事をよく覚えているものだ。何も特別な事は何もなかったのに、あの時の事は全て覚えている。




「桜の木の下には死体が埋められていらからね」


先生が冗談混じりに言った言葉だ。

美月はバカバカしいと笑い、私はそんな二人をぼんやり見ていた。


先生の言葉は本当かもしれない、と私は思う。こんな美しく咲き誇る為には何かが必要なのではないか、と。


私がそんな事を思っていると、風が吹いて桜の花を揺らした。ひらりひらり舞う桜は美しいけれど、当初の目的をそろそろ思い出さなければいけない。私は美月の肩を揺すった。ゆっくりと美月は目を覚ました。



「…千早」


「…おはよう、美月」


「寝てた」


「うん、知ってる。柏村先生に言われてきた」


「そっか」


美月は背伸びした。だけど立ち上がらず、また背中を幹に預けた。


「覚えてる?最初の私達の部活はここだった事」


「…覚えてるよ」


美月の言葉に私は驚いたが、顔に出さない事に成功した。私がさっきまで夢で見、思い出していた事を美月も同じ様に思っていたのだ。

この桜の木には何か不思議な力でもあるのだろうか。


「ねぇ、あの日の続き、しない?」


美月が言う。

確か、一年前のあの日。この桜の木の曰くについて皆で話しているうちに気持ちが良くなって昼寝をする事になったのだ。さすがに先生は仕事に戻ったけれど私達は今日の様にこの桜の木にもたれて、夕方まで眠っていた様な気がする。


いわく、と言ってもどこの学校にもありそうな話で、昔この桜の木の下で自殺をした生徒がいて、それ以来春のこの時期になるとその生徒の幽霊が見える、という話だ。



「別にいいけど…、でも続きって言っても何を調べるのさ」


「なんとなく。だって暇だし。…なんなら中川先生呼ぼうか?」


「べ、別に、中川先生は関係ないじゃない」


中川先生の名前を出されると弱い。先生は私の好きな人で、誰にもこの気持ちはばれたくないのに、美月には分かってしまった。それから事あるごとに先生の名前を出される様になったのだ。


「ふーん、あっそう。でも調べる事には変わりないからね」


「…だと思ったよ」


こうして私達はもう一度桜の木の噂を調べる事になった。

そしてこの事が私にとって唯一の不思議な体験をもたらす事になるとは誰も思っていなかった。


人間は誰しも目に見えるもの以上の物が見え、感じた以上の事を知覚出来るという。よく言われる言葉で言えば、それは霊感というもので、偶に美月の様な人並外れた霊感の持ち主もいるけれど、大抵の人は例え誰しも霊感を持っていたとしても、意識するレベルには届かない。


そして、稀に誰もが持っている霊感を一切持たない人がいて、それが私だという。確かに今まで一回も見えない物が見えた事はないし、実感はできないが、美月が言うのならそうなんだろう。


だから、私が何か、「そういうもの」を美月と同じ様に見ることはないはずだった。だけど私は桜の木の噂を調べる内に、何度か「そういうもの」を見た。


今でも思う。あの桜にはきっと私達が知った真実より多くの事が隠されていて、今も秘密を抱えたまま咲き誇っているのだと。


最初の不思議な出来事はその日の夜に起こった。

その日、私は夢を見たのだ。

学校の桜の下に座り、誰かを待っている夢を。


夢の中では随分長い事、私は誰かを待っていた。辺りはもう夜で、月に照らされた仄かな花明かりだけが辺りを照らしていた。待っている人は来ない事はもう分かっているのに、それでも私は待っていた。


あの人なら気付いてくれる。

あの人は来る。来なければ、私は。


震える手で、制服のポケットを探る。冷えた手がより冷たい物に触れた。

それは茶色の薬瓶。家の薬棚から持ってきたものだった。

何に使うかなんて思いたくない。これを使う時は、彼が来なかった時だから。


ー先生。


私は瞼を閉じて彼を思いだそうとして気付いた。


あの人の顔が思い出せなかった。

そうだ、私は彼の事を知らない。


あの人?あの人って、誰?


疑問が途端に意識を覚醒させた。春の湿った空気も、震える感覚も、ポケットに入った薬瓶の重みも、淡い花明かりも、

何もかもが消える。


瞼が開く。そこにはただ、見慣れた天井があるだけだった。





放課後、私達は部室にいた。目の前には高く積み上げられた資料があって、その向こうに私の好きな中川先生が座っていた。


ふと、今朝の夢が私の頭に浮かんだ。

朧げな光と咲き誇る桜、冷たい体に薬瓶。


私は誰を待っていたのだろう、と思ったと同時に答えは分かった。

待っていたのは「先生」。

あの人の顔を思いだそうとした時確かに私は「先生」と思った。


私が好きな人は目の前の「先生」だけど、夢の中で待っていたのは違う人だった気がする。だとしたら私は誰を待っていたのだろう?


分からない。ただの夢なのに、どうしてこうも引っかかるのか。


「まずは、噂がいつから出回り始めたかを調べないとね。きっと噂がたつ原因になった出来事があるはずよ。先生が赴任した時にはもうその噂はあったの?」


私の考えはお構いなしの美月が資料越しの先生に言った。


「僕が来た時にはもうあったよ。僕が始めて聞いた噂だったから」


先生の答えを予想していたのか、美月がふーんと答えた。些か失礼な気もするが、当の中川先生は気分を害した訳でもなさそうだった。


「だから、ちゃんと聞いてきましたよ。僕よりベテランの先生にね」


「ベテランの先生?誰ですか?」


「君達の担任の柏村先生だよ。職員室で席が隣なんだ。本当は教頭先生とかに聞いた方が良いんだろうけど…ね?」


先生が困った顔をして笑った。確かに教頭先生はこの学校の生きるアルバムだ。創立して間も無い時に生徒として入学し、今も教壇に経っているのだ。

だから大抵の事は教頭先生に聞けば分かるのだが、何せこの手の話が大嫌いで、そして先生の前でそんな話をしようものなら、いかにそれが非論理的でありあり得ない事かを延々と聞く羽目になる。それが先生となればそれだけでは済まないだろう。


「柏村先生って、そんなに長いの?」


「うん。この学校で30年は働いているんじゃないかなぁ?女性陣を除けば一番のベテランじゃないかな」



「へぇ。柏村先生も苦労したのね」


「はは、そうかもね。…で、その柏村先生が言うには、先生が赴任した時は確かに無かったって。だけどはっきりいつからその噂が流れ出したのかは分からないとも言ってたね」


「じゃあ結局明確な時期は分からないんですね」


「だからこれを持ってきて貰った訳よ」


美月が高く積み上げられた資料を軽く叩く。アルバムだろうか。


「なんでアルバム?」


「千早は桜の木の噂ちゃんと知ってる?」


美月は私の質問には答えず、話を変えた。こんなのは慣れっこだから私は特に気にせずに答えた。


「ちゃんとって、あれでしょ?夜に桜の木の下に行くと、昔自殺した血塗れの女の子が立っているって」


「…千早が木を使って自殺するならどうする?」


またもや質問が帰ってきた。随分物騒な質問だ。しょうがないので私は考える。

目の前にはあの、大きな桜の木。

これを使って死ななければならないとしたら…


「首吊りかなぁ」


「普通はね。だから血塗れの女の子なんて少しおかしくない?」


「まぁ確かに…でもおばけって大抵どこからか血とか出してるよね?」


「…あのね。噂ってね、真実が3割で嘘が7割ぐらいで出来てるの。だからこの噂も血塗れの女の子が出てきているって事は、多かれ少なかれ、血が出る様に死んだって思わない?」


そんなものなのだろうか。確かに木の下で死ぬとしたら首吊りが簡単そうだし、血塗れには首吊りではなれなさそうだ。

私はなんとなく自分を納得させようと試みたが、やはりよく分からない。


「そう、なの?」


「じゃあさ、桜の木の下で男の人が死んだっていう噂と女の子が死んだっていう噂、どっちが本当っぽい?」


「女の子の方かな」


この例えなら私でも分かる。ここは女子校で、男性が自殺するよりも女の子が自殺する方がより本当にあった事の様に思える。


「嘘の噂なんてすぐ消えるの。だけど少しだけ真実を混ぜておけば、消えずにずっと残る様になるの。だからこの噂だってどこかに真実があるはずよ。30年の間に桜の木で何かがあったっていうね」


「それでそのアルバム?」


「そう。誰か本当に自殺したなら生徒数が減ってるだろうし、入学式の写真の背景とか変わってるかもしれないし、何か分かるはずだわ」


「でも本当にあの桜の下で誰か死んだの?もし違ったら?」


「…死んだ人が見えるんだね、君には」


何も言わなかった先生が口を開いた。美月は頷く。美月が見えると言うなら、あの木の下で誰か自殺したのは本当の事だ。だけど私はまだ納得出来なかった。

美月に見えていることを疑っているのではない。見えているなら、何故彼女が死んだのか、が分からないのだろうか。今まで何度も美月と色んな経験をしてきた。生きている人間が絡むと分からない事も確かにあったけれど、単純にお化けだけなら分からない事など無かった。


「分からないのよ。去年初めて見た時から頑張ってるんだけどさ、中々ね。私を無視するなんて悔しいじゃない?だから絶対に祓ってやろうと思って」



息巻く美月に、私は冷めていた。

夢の事も気になっていたが、お化けにだって何か事情があるのかもしれない。もしあの夢が自殺した子の事だとして、あの寒さの中ひたすら誰かを待っている彼女の事を考えると、興味本位で立ち入ってはいけない気がした。


「里森さん?どうしたんですか?」


「え、あ…何も」


「ほら、千早も早く手伝って!」


「うん…」



だけど私はその気持ちを誰にも言わないまま、アルバムに手を伸ばした。





桜は、夜になっても美しいままだった。

だけどその美しさは昼間とは違った。

何故昼間見る桜と、夜見る桜はどうしてこんなに表情を変えるのだろう。

春の訪れを知らせる桜は、昼間あんなにも華やかに咲き、彩りを与えるのに、今見る桜は妖艶さを放っている。桜を見上げる度ぞくりと背中を走るのは、気温が下がっているだけでない。


怖いぐらい桜が美しいからだ。


彼女はこの桜の下で、ずっと「先生」を待っていた。今もきっと。私には見えないけれど、ここで待っている。


今、私も彼女と同じ、一人だった。


アルバム探しは美月の睨んだ通りだった。入学時の生徒数と卒業時の生徒数が違ったクラスがあった。美月は自殺した生徒の顔を知っている。入学式の写真を見て、この子、と美月は指差した。彼女は私と同じぐらいの髪の長さをして、儚げな雰囲気があった。アルバムの日付は今から20年程前になっていた。


体を幹に預け、私は考える。

「先生」とは誰なのか。どうして彼女は死ななければならなかったのか。

そして、どうして私はこんなにも彼女に惹かれるのか。そういうものを感じないはずなのに、何故。


足音が不意に聞こえた気がした。不思議と怖くなかった。私はこの足音を知っていた。どんな遠くても私は分かる。あの人が私に会いに来てくれる時の音。どんどん近づいて、それは誰でも分かる様な音になって、立ち止まる。


「どうしたの、こんなところで」


「先生こそ、どうしたんですか」


先生が少し驚いた顔をして立っていた。私は嬉しかった。こんな所まで先生が来てくれて。


「いや、帰ろうとしたら、木の下に誰かいる様に見えたから…さっきの話もあって気になってね。…何か見えたの?」


私は頭を横に振った。事実、何も私は見てなかった。


「何も、見えないんですけど…少し気持ちが分かるんです」


先生は何も答えず、桜を見上げ、少し考えるように言った。


「君は本当に何も見ていないの?」


「何も見ていません。先生だって知っているでしょう?私が何も見えない事」


「……そうだったね、じゃあもう帰ろう。こんな暗いところに、女の子が一人でいるべきじゃない」


私は先生の言葉に頷いて、体をおこした。もたれていた幹の暖かさが遠のく。

歩き出した先生の後を追いながら、少し私は振り向く。相変わらず桜は美しく、木の下には誰もいない。


私はきっと今日も夢を見る。

確信めいた予感が私を捉えていた。



私の目の前に揺れる二人の影。

綺麗な長い髪の女の人と、「先生」。

私は少し遅れて二人の後を追っていた。ここはあの桜の木の下ではない。眩しい光と萌える緑が私を戸惑わせた。


桜の時期に彼女は死んだのに何故、春を過ぎた夢を見ているのだろう、と。


疑問に誰も答えてくれる事なく、私はただ二人を追っていた。時折二人が笑いあう姿が追いつく事を躊躇わせた。

爽やかな風が二人の間を通り抜け、どこからか運んで来た葉を先生の肩に乗せた。それを今の距離よりもっと近づいて取る女の人。胸が焼け付く。私はこの痛みを知っていた。美月と先生に対する痛みと同じだったから。そうして二人が立ち止まっていると、ふいに「先生」が後ろを向いた。


私は息を飲む。私は「先生」の顔をよく知っていた。思わず私がその名前を呼ぼうとしたとき、また意識が浮上した。


私はまた、目覚めてしまったのだ。

逃げてゆく夢の残滓を、私は探しては集めて組み立ててみる。


あれは私自身の事だったのか。

でも振り向いた「先生」は中川先生ではなかった。でも前を行く二人を見て感じた痛みは、私と同じものだった。


私は「先生」の顔を思い出して、輪郭をもう一度なぞった。

夢の中の感情が心をざわつかせ、私はふいにまたあの確信めいた予感を覚えた。




再び、放課後。


私はまだ美月に何も言い出せないまま、部活にも参加せず、ただ誰もいない教室で課題を消化していた。


美月に部活を休む事を伝えた時、何も言わなかった事が少し引っかかったけれど、私は何も気づかないふりをした。美月の事だ。私が何かを知っている事なんて分かっているのだろう。


もう殆ど真実は分かっていた。でも一つだけ分からないことがあった。


人の心程分からないものはない。

人の心が分かればどれ程生きやすくなるだろう。言葉はいくらでも偽れても、心の中は真実しか生まれない。


彼女は何を信じ、「先生」を待ち、何に絶望して自分を殺したのか。


彼女の真実だけでは本当の真実は分からないのであれば、もう一人の真実を確かめるしかないのだ。


私はもう一人のその人、「先生」を待っていた。不思議と心は落ち着いていた。

私は彼女の想いを知っているから、何をすべきか知っているのが大きかった。

私は瞳を閉じ、息を吸った。

ゆらりと意識が遠のく。夢の時の様に彼女の意識が混じり、同化していく。


私は、彼女になっていた。


こつこつと響く音がして、私は嬉しくなる。「先生」にもうすぐ会えるのだ。

この気持ちだけはずっと変わらなかったのだろう。報われないと分かった後も、待ち続けた今も。


足音が止まる。ドアが開いて、私は振り向いた。ドアの向こうには柏村先生が少し驚いた顔をして立っていた。


「君は、……里森さん?」


「今日は先生を待っていました」


「僕を?」


柔らかい笑顔は相変わらずで、切なくなる。私の気持ちが20年間変わらなかった様に、この人も変わらなかったのだろう。私が与えてしまった影は今もつきまとっているのだろうか。


「先生は、桜の木の噂知ってますよね?」


「知ってるよ」


「良かった。……じゃあ、私があの下で待っていたのも知ってましたか?」


私、という言葉に先生は少し反応した。先生の前にいるのは私で彼女ではない。先生が「私」だと気付いてくれる事を願うしかない。


「君は、何を」


「先生、ずっと会いたかった。ずっと待ってたんです。でも先生は来てくれなかった」


今なら分かる。彼女は認めたくなかったのだ。先生が自分を選ばずに来なかった事を。そして自分の醜さも。


「先生は私の全てだった。でも貴方は違った。貴方が他の人と一緒になるなんて、耐えられなかった」


「だから君は死んだのか」


「そうよ。貴方が良く知ってるでしょう?」


私と先生の悲しい声が響く。先生は笑っていなかった。痛ましいものを見る様な顔だった。西日が強い影を作り、私達の間を割いている。私達は決して交わる事がないという事実を突き付けるようだった。


私は痛みを感じていた。私の知っている痛みだ。人を好きになる事が綺麗な感情だけで済んだらどれ程幸せだろう。焦がれた想いは心だけでなく全てを壊してしまう。側にいられればいいだなんて、相手の気持ちが自分に在るのを分かっている人がいう言葉に過ぎないのだ。


私は彼女の気持ちを探る。

夢はもうすぐ終わってしまう。

その前に、彼女の気持ちを伝えなければならない。

何故彼女は死んだのか、何故彼女は今まで先生を待ち続けたのか。


彼女は、私は。


ただ、私は。



目まぐるしく映像が頭の中を流れる。私の知らない、彼女の記憶だろうか。喜びや悲しみ、痛みや切なさの波がそれらを運んでは彼方に追いやり、通り過ぎていく。それと同時に私の中から彼女が遠ざかっていくのを感じた。


まだ、だめだ。私は何一つ分かっていない。必死で流れる映像を追う。春の桜、深い緑、どれも美しく、どの映像にも先生がいた。そして彼女の最期の時が流れ、映像が途切れた。


「……!」


先生が何かを叫んだ。私の体が崩れ落ちたからだろう。夢は覚めたのに、意識がなくなるのは変な話だ。

そして先生が叫んだ言葉が私の名前ではなかった事に何故か安心し、私は意識を失った。





柏村です、と彼は言った。

私はその瞬間胸が熱くなるのを感じた。また熱が出てしまったのか。厄介なこの体はいつも私を寝床へと縛り付けていた。


彼の挨拶に、私は何と返したのか覚えていない。

ただよく覚えているのは彼の自己紹介の後に姉が言った一言だ。


姉は嬉しそうに言った。

彼は私の婚約者なのよ、と。


今思えば私の人生が変わった一言でもあった。


それから彼は良く家に遊びに来る様になった。彼は家族に受け入れられ、姉と彼は本当にお似合いの二人だった。そして彼と会う度、私は胸を熱くなるのを感じた。最初は発熱かと思ったが、体は軽く、何故か嬉しく、また良く分からない罪悪感も感じていた。


しばらくして私は気付いた。私は彼を好きになっていたのだ。


その気持ちに気付いた日の事を、よく覚えている。


あれは新緑が美しく映える季節だった。私は姉と彼に誘われ、家の近くの公園に出掛けていた。あの時程私の人生が美しく見えた時はなかった。彼は病気がちの私を良く連れ出して、世界が広く美しい事を教えてくれた。だから私にとって彼は世界そのものであった。


私は二人と歩く事が躊躇われ、少し後を歩いていた。芝生は柔らかく、両脇には道を覆う様に樹々が生え、そよ風が前から通り抜け髪を揺らして行った。


ふと前の二人が足を止めた。私もつられて足を止める。姉が、彼に近づき髪に触れた。どこからか運ばれてきた葉でも乗っていたのだろう。そして優しく取り除き微笑んだ。彼もつられたのか微笑む。

私の知らない彼の顔だった。


その時だった。私の知らない感情が、私を支配した。私はこの瞬間嫉妬という感情と彼を好きであると理解してしまったのだ。


それからの事は思い出したくない。

彼が姉の婚約者という事実が私を苦しめた。優しい姉の幸せを誰よりも祝いたかったのに、私は祝う事が出来なかった。

姉が幸せそうな顔をする度私は醜い感情を抑え込まなければならなかった。


そして、彼と出会って次の年の春に姉と彼の結婚式が決まった。

その時、私は床に伏せる日が殆どで、そう長くは無いと皆が言っていたし、私も自覚していた。何となく物心ついた頃から、人より短い時間しか生きられないと感じていた。


死ぬ事は怖くなかった。何度か危ない時はあったし、殆ど家の中で生きていた私にとって、生きていく目的はないに等しい。先生と永遠にお別れしなければいけないのは悲しいけれど、彼には姉がいる。私が死んだ後だって、ちゃんと幸せになれるだろう。


それでいい。なのに胸は痛い。

ずっと痛いままだった。


私は胸の痛みに耐え切れなかった。そして私は家を飛び出した。


何処か綺麗な場所へ。死に場所ぐらいは華やかにしたかった。そうして彷徨っているうちに、学校の桜の事を思い出した。一度しか見た事がないけれど、彼が今が一番綺麗だと教えてくれた。桜は彼が好きな花だった。私の死に場所は決まった。私は殆ど通うことの無かった通学路を歩いて、学校に向かった。



久しぶりに見た桜は、彼の言う通り本当に美しかった。私は疲れて、幹にもたれかかった。見上げれば月明かりが桜を照らしてぼんやりと桜も光っているように見えた。


私の体はもう終わりに向かっていた。体の機能が少しずつ低下していっているのが分かった。死ぬのは怖くない。ただ、先生に会いたいと思った。もし最期に見るものが彼であるなら私はどれだけ幸せなのだろう。


もし彼が来てくれたら。

もし私を探しに来てくれたら。


冷たくなった手を少しでも暖めようとポケットに手を入れる。こつん、と何かが手に当たった。家から持ってきた薬瓶だ。父が医者から、本当に病気で辛くなって本人が楽になりたいと心から思った時使うように、と渡されていた薬だ。


私は決心した。

もし彼が来てくれたら、私は生きられるだけ生きよう。

もし彼が来てくれなかったらこの薬を飲もう。


彼が来る訳無いのに、私は決めた。

もうどのみち生きられないのだ。少しでも望みを持っていたかった。


私はそれから待ち続けた。

そして、薬はついに必要なかった。

体が、彼をもう待てなかった。


私の意識がどんどん曖昧になっていく。

混濁した意識の中で、私は願う。彼が来る事を、そして彼が来なくても彼が幸せである事を。私が隣にいたかった。気持ちを伝えてみたかった。


出来なかった事ばかりだったけれど、私は先生を好きになった事は後悔していない。私の人生が一瞬でも輝けたのは先生のおかげだったから。


さよなら、先生。私の好きな人。









暗くなった保健室で、私は見たもの全てを話した。柏村先生は静かに涙を流して聞いていた。

いつの間にか美月と中川先生もいた。


意識を失った私は柏村先生によって保健室に運ばれていた。目覚めるまで、私は長い夢を見ていた。そして私は、最期に彼女が思った事、伝えたかった事、そして何故今も桜の下に留まり続けているのかを知る事が出来た。


「あの子は今も私を待っているんだね…」


話し終えた後、先生がぽつりと言った。私は頷く。


「今も桜の下にいるよ。……あなたを待ってる」


美月が答えた。美月は私を見た。


「ねぇ、千早。あの子を楽にしてあげないの?」


「私が?」


「そうよ、あなたまだ一つ言って無い事があるでしょう?……あの子が留まり続けている理由」



私は柏村先生を見た。柏村先生に追い打ちをかける様にならないか少し不安だった。でも私は心を決めた。


「先生は、なんで彼女があそこにいるか分かりますか」


「私を待っているのでしょう?」


「違うんです。……彼女は先生を見守っているんです。彼女は最期に少しだけ後悔したんです。想いを伝えられなかった事と、……先生が幸せになる事を見届けられなかった事を」


「私の幸せ……」


「彼女は分かってたんです。先生が来ない事も、それともし今自分がこんな死に方をしたら姉と先生を傷付けてしまう、って。だからせめて先生の幸せを願っているんです」



「……私は何をすればいい?」


「ただ彼女に、幸せだよって」


「それだけでいいのかい?」


「それでいいんです」


「分かった」


先生は頷くと、立ち上がり保健室を出て行った。


私は一つ先生に聞きたいことがあって、思わず呼び止めようとしたけれど、やめた。後は先生と彼女の間で解決するべきだ。先生の想いがどうであったかは、私達が知らなければいけない事ではない。


私達は何も言わず、先生の背中を見送った。桜が、窓の外で舞っていた。






坂本美月は不機嫌だった。

千早が何も自分に言わなかった事にも腹が立っていたし、それに千早が絶対あり得ない事、見えないものが見えてしまった事についてにもだ。


言わなかった事はしょうがないとしても、千早の体質から言って、先日の件は本当に、死人が生き返るぐらいあり得ない事だった。そしてあってはいけない事でもあった。


私が側にいたのに、なんて事だ。


千早の特異な体質を知っているの美月とあと一人だけだった。

あと一人というのは中川律、中川先生だけ。そう思うと苦い思いが美月の胸に込み上げてきた。


中川は危ない。何度もそう言われてきたし、自分自身も十分分かっているつもりだった。また千早を利用して何かを成し遂げようと企んでいることも知っていた。だから、唯一の親友でもある千早をどんな事があっても守り抜こうとしていた。


だけど、中川が千早に何かをした事は確かだ。そしてそれはとても良くない事であることも。私は何をしていたのか、まもれなかった、それが一番美月を苛立たせていた事だった。

今まではいつも一緒にいさえすれば良かった。例え自分がどうなっても千早が傷つくことなどなかった。


だけど千早が中川に近づく事を望み、話は大きく変わってしまった。

千早の好意を自分の良いように扱う事に罪悪感など決して中川は持たないだろう。そして千早も自分の好意を中川に捧げる事をどんな形でも受け入れるだろう。


人の良い友人は、意外にも自分がどう思うかを一番に大切にしているふしがある。決して自己中心的ではないが、どちらかと言えば頑固なところがあった。

長い付き合いの中で最悪な結果に突き進む事になる事は簡単に予想出来る。


美月は、千早が休んでいるうちによっぽど職員室に怒鳴り込んでやろうと思ったが、流石の美月にも出来なかった。


もちろん、千早の事を考えてだ。


桜の件は、多分あの霊が千早に乗り移っていたのか、それとも、強い干渉なあったのだろう。それ自体何も思うことはない。今までそんな事は何度も見て来たし何ら不思議な事はなかった。


ただそれが千早では起こるはずのない事であり、美月にとって一番恐れている事でもあったのだ。


千早の特異な体質、それは霊的な干渉を一切受けないものであり、だからこそ美月の友人でいられるのだ。


美月の様な強い霊力を持つ人間は、その強すぎる能力のせいで普通の人間にも強い干渉が起きてしまう。

例えるなら、強い磁場では方位磁石が正常な動きが出来なくなる事と同じ様な状態と考えられる。

美月にとって千早は奇跡の様な存在だった。自分といてもおかしくならず、同い年で一緒にいる事が楽しい、そんな相手は千早を除けば誰一人としていないだろう。


だから千早が取り憑かれたり、何か見えてしまうことは、美月にとってこれからずっと独りで生きていかなければならない事でもあった。


千早という存在を知ってしまった以上、美月には孤独を耐えられる自信がない。もし誰も友人を持たず、寂しさを自覚しないまま生きていけば孤独を孤独と知らずに生きていけただろう。


美月にとって千早はもう一つの世界であり、明るく幸せな世界だった。



「おい、変態教師」


もう誰もいない桜の木の下に、中川と美月は立っていた。

彼女は消えた。柏村先生が何をしたかは結局分からないままだったが、彼女の心残りを消すに足りる事をしたのだろう。もし、中川にもそれぐらいの誠意があれば大人しく身を引いたのに、と美月は心から思う。


随分な呼び方に中川は笑顔を崩さなかった。


「なんですか?」


「否定しないの?」


「僕は君から見れば変態なんでしょう?それに僕も自分がまともだと思ってないですから」


美月は溜息をついた。

中川相手にまともな答えを期待してはいけないのだ。千早の前では決してそんな姿を見せないのだから余計にたちが悪い。


それでも美月は確かめなければならなかった。中川が仕組んだ全ての、少しだけでも。


「千早は何で桜の木の事を読み取れたんだろうね。……先生が何かしたの?」


「僕は里森さんに変な事はしてないよ。強いて言うなら、僕の力を少し入れてみたんだ。方法は言えないけど。……まさかあそこまで見えるとは思わなかったよ」



白々しい、と美月は思った。千早と桜の木の下の彼女は境遇が似ている。だからより干渉を受けやすいのは明白だった。そんな事は中川程の力があれば十も承知なはずだろう。


「……ねえ先生。一つだけ覚えておいて。千早に何かがあって、それが先生の所為だったら私はあなたを許さないし、それなりの事をあなたにするわ。例え私の所為で千早が狙われてるとしても」


「そうですか」



嫌な笑顔をして、さらりと返答する。昔はこんな顔をする人ではなかったのにと思い、胸が痛んだ。中川が変わってしまった責任の一端を負っていると思えば、本当は償わなければならないが、千早を巻き込む訳にはいかないし、中川が知るべき真実はまだ幾つか残っているはずだった。


だけどその真実すら中川を止める事は出来ないだろう。私を断罪する為に彼はいきているのだから。


二人の間に沈黙が留まって、ただ動いているのは桜を散らす風だけだった。


そして桜が、二人の間を遮るよう舞い散った。

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