09 大事にしてくれ
とはいえ、どう切り出したものだろうかとわたしは悩んでいた。
まるで盗人のように足音を消しながら彼の部屋の前に来たはいいものの、そこから扉に手をかける勇気が沸いてこない。やっぱりやめておこうかなあ、明日でも別にいいじゃない、と思ったところでわたしは途端、後ろめたい気持ちになる。
――きみも、いつかはぼくを置いていってしまうんだよ。
別に、これが“置いていく”という意味に値するかは分からない。でも、彼は誰かに傍に居てほしいのだとあのとき理解した。だから今、彼は一番誰かに傍に居てほしいんじゃなかろうかとわたしは思う。
わたしはその場で何度か足踏みをしてから、そっと扉に手をかけた。
「……ヴェイドさん、起きてる?」
キィ、と小さく開いた扉の向こうを、わたしはのぞきこんだ。薄明かりが灯された室内はひっそりと静まりかえり――と、ここでわたしは固まった。
「ちょ、ちょっとなんでヴェイドさん待ち構えてるのよ!?」
扉のすぐ鼻さきに、ぬっと立った魔術師がいたものだから、わたしは目を見開いた。彼はやや疲れた表情でこちらを見おろしている。
「いや、部屋の前にきみの気配を感じたものだから」
いやいやいや。
だとしても不審な行動はしないでよ、ヴェイドさん。最初から目線が下を向いていたあたり、わたしが来ると確信していたのだろう。わたしは若干引きつりながらも、部屋のなかに入ろうとして、
「あーちょっと待った。それ以上動くんじゃない」
「ええっ」
動くなって、なんでよ。
彼の片手に静止されたわたしは、とまどいがちに立ち止まった。
「これ以上、ぼくの威厳を損なわせるんじゃない。弱っているところなんて見せられるか」
ヴェイドさんは吐き捨てるように言った。人前から姿を消すという死にかけの猫だと思ったのは、あながち間違いではなかったようだ。わたしは薄暗闇のなかの魔術師を見やった。
「あなたに威厳なんてあったっていうほうが疑問だけど」
「ああ、そりゃそうだね」
「もう」
苛々した様子の彼に、わたしは途方に暮れた。いったい何を怒っているのだろう。わたしはそう思い、そうじゃない、と思い直した。彼は怒っているんじゃない。たぶん、思い通りに魔術が使えないことを……
「魔術を使えないっていうのが、そんなに恐い?」わたしは彼に言った。「なにもあなた一人が頑張る必要はないのよ」
「べつにそれが恐いわけじゃない」
じゃあ何が恐いの。
「それは……」
彼はまた、夕方のように口ごもる。何かを言おうとしているのに、彼の自尊心が許さない。そういったところだろう。わたしは扉の前から動かせてもらえないまま、そんな彼を見つめていた。
本当にこの魔術師、どうしてくれよう。
たかだか魔術が使えないぐらいで、ここまで暗くなるようなことなの? もっと他に理由があるのかもしれないが、こうして話さないのでは拉致があかない。
わたしは彼に、ごめんね、と心のなかでつぶやいた。
ごめんね、わたしあんまり我慢強いほうじゃないのよ。わたしはすっと息を吸うと、リフレイアさんの真似をしてヴェイドさんを見やった。つまり、尊大なあの目つき。
「ふーん、じゃあわたしリュカのところ行ってこよっと。ヴェイドさんと一緒に居ても退屈だし」
「は?」
彼は訝しげな声を返した。
「ちょうどリフレイアさんが来てるし、“便利な”転移陣で送ってもらうわよ。リュカのほうがずっとヴェイドさんより優しいし、一緒に居て楽しいし」
「待ちなさいフィオナ、女の子が今から出かけるなんて危険に決まってるだろう?」
ちょっと、あなた心配するところそこ!?
見捨てられ不安をあおったつもりなのに、彼が心配するところといえばそこだった。わたしは内心拍子抜けしたが、彼らしいような気もした。
「……そ、そんなの関係ないじゃない。だいたいわたしあなたと一緒に居なきゃいけないって理由ないんだから!」
「なっ、フィオナきみは――」
来た。
彼はわたしに怒ろうとした瞬間、やはりはっとしたように言葉を切った。わたしはその隙を狙って彼のもとに走り、そのまま腕をつかむ。捕まえた。
「逃げないで」
わたしの声が薄暗闇のなかに響く。魔術師が、身じろぐようにわたしを見おろすのが分かった。まさか彼の変な態度に足もとをすくわれるとは思っていなかっただろう。彼は諦めたように言った。
「まいったな、逃げるのはきみの専門だったのに」
「そんなこと無いわ」
むしろ逃げているのはあなたのほう。彼はわたしを迎えに来てくれたのに、こうしてわたしと向き合おうとしていない。
「……あなたが心配なの。あなたがどうしてそんな顔をするのか、知りたくて仕方がないの」
彼は何も言わなかった。
わたしは少しためらった後、そっと彼に抱きついた。
「あなたが好きだから、気になるのよ」
わたしの声は、届いてる?
彼の心地よい魔力の気配は、彼が魔術を使えないと言った後も変わらない。なのに彼は苦しんでいる。
わたしの知らないあなたをもっと知りたい。私はそう思った。そうして一緒に悩むわけにはいかないのだろうか。あなたはもう、十分にひとりですべてを抱えてきたのだから、もうあなたを置いていかない者がここに居るのだと、彼に伝えたいのに。
しばらくの間があった。
そして次には、魔術師の腕がそっとわたしにまわされる。
「分かってるよ、フィオナ」
まるで駄々をこねる子どもをあやすように、彼は言う。わたしはむっとしながら、彼を見あげた。
「子ども扱いしないで」
「じゃあ、フィオレンティーナ」
真名を呼ばれて、わたしの体は一瞬だけあまくしびれる。固まるわたしを楽しそうに眺めながら、ヴェイドさんはにやりと笑った。
「もう少し開き直るか」
暗闇にきらめいた青紫の瞳に、少しだけ嫌な予感がしたのは内緒である。
そして、なにを聞いても怒らないように、と彼は前置きした。
「怒らないわよ」
今さら怒ってどうするのよ。とりあえずは彼の話を聞こうという思いはあった。そんなわたしを見おろしながら、彼は言った。
「じゃあ、きみとぼくが契約したって知っても?」
「えっ?」
契約?
一瞬なにを言ってるのか分からず、頭のなかが真っ白になる。そして次に思い出したことは、
――水の大精霊は、裏切った恋人を地の果てまで追いかけて、掟に従い、その魂を奪う。……ヴェイドさん、お母さんはクレマン伯爵に復讐するために大精霊をやめたの?
わたしは水の大精霊の血を引いている。そして本で読んだ限りでは、彼女たちと契約を結ぶということは、意味することはひとつで……
「こ、婚約ですって――――ッ!?」
わたしの叫びが、屋敷中にとどろいた。
◆・◆・◆
そしてそこには激高するわたしが居た。
「信じられない、勝手に何てことしてくれるのよ!」
わたしは力の限り、目の前のありえない魔術師を殴りつづけた。だが体格差のせいで、せいぜい彼の胸のあたりに“ぽかぽか”という表現にしかならないのが辛いところだ。いっそのこと、リフレイアさんのように彼を火山口に突き落としてやりたい衝動に駆られる。
「ちょっと、暴力は駄目だ、暴力は」
ヴェイドさんはわたしの形相に青くなりながら、たじろいだ。うるさいわね、黙ってひっぱたかれるぐらいの気概は持ちなさいよ!
「落ち着いて、フィオナ」
やがてがしりと、彼に両手をつかまれる。
「契約なんて嫌だったの?」
「い、嫌に決まってるじゃない」
「でも、ぼくのこと好きなんだろう」
「ちょ、ちょっと!」
なんてこと言うのよ。
この魔術師に、心配りという言葉は無いのかしら。わたしが過去に何度も好きだと言ったことを、こんなふうにからかうだなんて信じられない。なんて意地が悪い魔術師なのと、わたしは歯がみしたい思いだった。そして、そんなわたしに彼は言う。
「じゃあ契約を解除しようか」
あっさりと言った彼にわたしは一瞬、言葉に詰まる。
「…………そんな簡単に言わないでよ」
「せめて責任を取ろうと思ってるんだ。だから、ぼくはきみを護る義務がある」
優しい色合いの青紫の瞳がわたしを見つめる。
責任を取るだなんて、いったいどういうつもりなの? さんざんわたしの気持ちを躱しておきながら、急に真逆の態度を取るだなんて。
「あなた、自分の気持ちはどうでもいいの?」
「……心外だな。ぼくもきみが好きだよ」
嘘よ、そんなこと思ってもいないくせに。
そんな軽い気持ちで婚約を結ばれたのかと思うと、わたしの心はひどく落ちこんだ。彼が本気で言っているとは思えない。彼の言葉をそのままの意味で受け止められたら、わたしはどんなに幸せだろうかと思うのに。
わたしの沈黙を肯定と受け取ったのか、ヴェイドさんは「契約は成立だね」と言った。
「ただ、ぼくはもう二度ときみを罵倒できないかなあ」
「どうして?」
寂しそうに言う彼に、わたしは訊ね返した。
「それが水精霊への裏切りだからだよ」
「罵倒することが?」
「そう」
水の大精霊は裏切った恋人を地の果てまで追いかけて、掟に従いその魂を奪う。確かに魔術書にはそう書いてあった。
「だからあなた、怒ったとき妙なところで言葉を切ったりしていたのね」
わたしを罵倒しないように。
「……喧嘩も出来ないだなんて、それこそ冗談だわ」
どう考えたって、ヴェイドさんとは言い争いの毎日なのに。苦い顔になったわたしの手を、彼はそっと拾いあげた。
「きみに殺されるなら、まあそれも良いかもね」
「馬鹿言わないでよ」
あなたを殺すだなんてありえないわ。わたしは彼の瞳をのぞきこんだ。
「というか、わたしにそんなことさせないで」
「それはもちろん」
そう言ったヴェイドさんは、既にいつもの彼だった。余裕そうに笑みを浮かべた水の魔術師。秘密にしていたことをばらして、いくらか気が楽になったのだろう。
「だからもう喧嘩はしないでおこう。後生だからぼくを大事にしてくれよ、フィオナ」
「ふっかけるのが、まるで一方的にわたしみたいな言い方ね」
「あれ違うの?」
ヴェイドさんはわたしをからかうように笑った。
この人、本当にわかって言ってるのかしら。わたしはむっと口を引き結ぶ。
契約で結ぶということは、彼は一生、わたしと一緒にいなくてはいけないのに。本当に好きだと思ってくれないのなら、そんなことしないでおいて欲しかった。
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